ミュージシャン・小室等(3)「出発の歌」大ヒット、音楽番組に

話の肖像画

 〈高校を卒業するとき、合唱部内で結成したフォークグループは解散。多摩美術大学彫刻学科に進学したが、止まっていた運命の歯車が再び動き出す〉

 大学時代、ラジオで流れてきた米国フォークグループ「ピーター・ポール&マリー(PPM)」の洗練された都会的な調べに感銘を受けた。高校時代の同級生だった小林雄二らと組んでPPMの曲を歌うようになりました。

 〈多摩美大では戦後日本の抽象彫刻界の立役者で、文化功労者にも選ばれた彫刻学科の建畠覚造(たてはた・かくぞう)さんに出会う〉

 僕は不真面目で、友人に手伝ってもらった作品を提出することもあった。すると、建畠先生は他の生徒の作品は時間をかけてみているのに、僕の作品には一瞥(いちべつ)もくれない。僕は思わず、建畠先生を呼び止めて「僕には彫刻の良しあしが分からない。どうして分からないんでしょうか」と聞いたんです。そうしたら、建畠先生は「一途(いちず)に表現したいと思って作品を作れば、技術や構図、才能にかかわらず、人を感動させることができるんだ」とおっしゃった。要するに私はそこまでやっていない、と見抜かれた。

 その言葉を聞いたとき、自分は音楽を本気でやろうと思ったんです。一途に音楽をやれば僕でも人を感動させることができるんじゃないか、と。

 〈1960年代にフォークブームが到来し、小林さんらと結成したフォークグループ「PPMフォロワーズ」名義で昭和42年にアルバムを発表。その後、小林さんらと音楽ユニット「六文銭」を結成した〉

 「六文銭」という名は、東京都内にあった居酒屋の看板と、僕らが好きだった英国のサマセット・モームの小説「月と六ペンス」から着想を得ています。高校の同級生だった小林と僕のような、フォーク好きの者たちが集まって交流するようなグループでした。当時は、自分がよく意味も理解していない外国語ではなく、日本語で歌おう、と思うようになっていた。だから日本語のグループ名にしたかったんです。メンバーが交代しながら、学園祭の延長みたいな音楽活動が続いていました。

 〈46年開催の「第2回世界歌謡祭」に出場するために「出発(たびだち)の歌」を作曲した〉

 「出発の歌」では、パワフルな歌唱力に定評がある歌手の上條恒彦さんと、「六文銭」のゴスペル調のハーモニーがかみ合ったら面白いな、と思いながら作曲しました。当時は歌手、浅川マキさんの「夜が明けたら」のような夜明けに汽車で旅立つイメージか、米歌手のボブ・ディランのような放浪の旅のイメージの歌が多かった。そこで「六文銭」メンバーの及川恒平に「今までにないような明るい感じで出発する旅の詞を書いてほしい」と頼んだんです。

 〈この曲は世界歌謡祭でグランプリ・歌唱賞を受賞。大ヒットを記録した〉

 「出発の歌」が売れたのは予想外の出来事でしたね。それから上條さんとともに「六文銭」はテレビ局の音楽番組を渡り歩いて歌うようになった。スケジュールを全て押さえられ、音合わせ、リハーサル、本番という流れを何度も繰り返す。歌う現場が楽しくなくなり、グループ内がギクシャクするようになった。僕はリーダーとして皆をなだめましたが、及川は「もう我慢できない」と。それでグループを解散しました。(聞き手 竹中文)