【話の肖像画】野球解説者・佐々木信也(3) 26歳で引退、テレビの世界へ - 産経ニュース

【話の肖像画】野球解説者・佐々木信也(3) 26歳で引退、テレビの世界へ

  〈プロ2年目の昭和32年、パ・リーグ再編で大映ユニオンズに移ったが、同年オフには大映が毎日と合併し、大毎オリオンズ(現ロッテ)に。3年で3つのユニホームを着るめまぐるしさだった〉
 この合併は毎日が大映を吸収した形でした。大毎の別当薫監督は慶応大の先輩で、湘南中学時代にコーチをしてくれた人でもあったのですが、二塁手に私と須藤豊(後の横浜大洋監督)を併用した。ダブルヘッダーの第1試合でヒットを2本打っても、第2試合で須藤が先発で使われ、「それはないだろう」と思うことも。出たり出なかったりで私の成績は落ち、4年目(34年)の打率は2割を切ってしまいました。
 この年、優勝を逃した別当監督は辞任。ヘッドコーチから昇格した西本幸雄監督の構想に私は入っておらず、戦力外を通告された。このあと、慶応OBの巨人・水原茂監督から「うちはセカンドが手薄なので」と誘われたのですが、スポーツ紙に大きく報じられてしまい、自分から水原さんへ断りを入れて移籍話はご破算となりました。
 〈引退が決まり、新たな仕事が決まらないまま越年した35年1月、NET(現テレビ朝日)と契約。26歳の野球解説者誕生は、史上最年少と話題になった〉
 当時のスポーツ部長と面接して間もなく契約が決まりました。後から「5分話をして『これは使える』と思った」と聞かされたが、女房(明子さん)のおなかの中には子供がいて、家族を食べさせなければと必死だった。春のキャンプで解説者の草分け的存在の小西得郎さんにお会いしたら、「あなたは足でしゃべりなさい」とアドバイスを受けた。「ああそうか。頭で考えただけのしゃべりではベテラン解説者にはかなわない。足を使って、いっぱいネタを用意してマイクの前に座りなさいという意味だな」と理解し、その教えは50年以上実践しました。
 当時、NETの中継が多かったのは東映フライヤーズ(現日本ハム)戦。37年の優勝、日本一はいい戦いぶりだった。解説でコンビを組んでいたのは同世代の奈良和アナウンサー。「佐々木さん、若さでいきましょう」と声をかけてくれた。どちらが言い出したのだったか、「なるべく短いセンテンスの言葉で、会話のキャッチボールをしよう」と意見が一致したのを覚えています。
 取材では選手が着替え中のロッカーにまで入り、話を聞き出しました。東映の試合前、トップバッターを務める西園寺昭夫の目の周りが二日酔いで赤いのを見つけ、「こらっ!」としかると、「見逃してください。ヒットを打つので…」と懇願されたことがあります。本当に3安打を放ち、放送では内緒にしてあげました。
 解説者の仕事のかたわら、ラジオの音楽番組のディスクジョッキー、テレビのワイドショーの司会なども積極的にやりました。野球のしゃべりでプラスになると思ったものは全部引き受けたから。こうした経験は後のプロ野球ニュースでのしゃべりにも直結しており、自分の栄養になったと思います。
 実は、解説の仕事に母(静子さん)は最初大反対だった。「信也は朝から晩までひと言もしゃべらないような無口な子だった。無理だからすぐにお断りしなさい」と。何年かして、私の講演を聞いてようやく安心したようでした。(聞き手 三浦馨)