野球解説者・佐々木信也(2)母親孝行のためプロ野球へ

話の肖像画

 〈昭和27年、慶応大野球部へ。2年生の春からショートとしてリーグ戦に出場するが、秋には阪井盛一監督からセカンドへの転向を勧められた〉

 私は「ショートをやらせてほしい」と監督へ抗議したけれど、セカンドへ回って結果的に良かったのかもしれません。ショートより余裕ができるので全体の守備位置を確認し、「もっと右に寄れ」といった指示も出す、守りの“監督”になれたから。

 4年生では主将になりましたが、当時はしゃべるのが大の苦手。春の早慶戦を前に、野球部の同期で寄席(東京・人形町末広亭)の息子だった石原仲晃が「緊張をほぐすため、みんなで落語を聞いてみてはどうか」と提案してくれた。日吉(神奈川県)の合宿所へ来ていただいたのは、三代目桂三木助さん。噺(はなし)が本当におもしろくて、それから落語にはまりました。秋のシーズン中には、三木助さんが「ちょっと若いのを連れてきたよ」と合宿所へ。それが小さん師匠(五代目柳家小さん)。後の人間国宝になられた方でした。プロ野球を引退後、解説者として話すのが仕事になりましたが、一番の先生は落語家だった。しゃべりがうまくておもしろいから。

 大学を卒業後は、社会人野球でプレーするつもりだった。20社ぐらいから誘いを受け、いったんは北海道の東洋高圧(砂川市)に就職を決めました。

 ところが、プロ野球の高橋ユニオンズの訪問を受けた母(静子さん)に「話を一度聞いてごらん」と勧められました。実は当時、父(久男さん)が家を飛び出していて、母は慣れない行商を始めるなど、さんざん苦労して僕ら4人の兄弟を食べさせてくれていた。一度決めた就職を断るのは抵抗もあったけど、「おふくろを少し楽させてあげようかな」と考え直し、親孝行のつもりで入団を決めました。

 契約金は350万円。今でいえば8千万円から9千万円ぐらいの価値かな。おかげで下の弟2人を大学へ行かせることができました。

 〈31年に入団した高橋では1年目からセカンドに定着。リーグトップの180安打を放ち、打率も2割8分9厘(リーグ6位)で西鉄(現西武)の稲尾和久と新人王を争った。だが、パ・リーグを8球団に増やすため29年に発足したチームの選手は寄せ集めに近く、2年連続の最下位に終わった〉

 プロ野球に関しては何の予備知識もないまま入団したが、最初に岡山のキャンプへ合流し、先輩たちの動きを見て、「あっ、これならレギュラーは大丈夫だ」と自信を持った。キャンプで練習後に宿舎へ帰り、夜に素振りをしていたのは私だけ。先輩たちは毎晩、歓楽街へ繰り出していました。

 この年はオールスターにも選ばれて、杉下茂(中日)、長谷川良平(広島)の両エースからヒットを打ちました。同い年の金田正一(国鉄=現ヤクルト)と1度だけ対戦したのもこのとき。三振に仕留められました。

 〈翌年(32年)春のキャンプ中、突然、高橋と大映スターズの「合併」が発表され、大映ユニオンズが誕生。「大映の佐々木」としてプロ2年目を迎えることになった〉

 私のように大映へ移った選手が多かったけど、東映(現日本ハム)と近鉄へも振り分けられ、残り3分の1はクビになった。だから私は合併でなく、高橋はあのとき解散させられたのだと、今でも考えています。(聞き手 三浦馨)