喜劇役者・大村崑(4)育ててくれた花登筐先生

話の肖像画

 〈喜劇役者、大村崑の名を世に知らしめた一人に劇作家、花登筐(はなと・こばこ)がいる。テレビの脚本で意気投合すると、昭和34年、大村と芦屋雁之助・小雁兄弟らと劇団「笑いの王国」を結成した〉

 花登先生とは、専属コメディアンをしていた大阪・北野劇場で知り合いました。恋愛話が勘違いから騒動になるといった軽いコントを山ほどお書きになり、僕らが演じました。それが評判となって、一緒にテレビ界へ進出。先生が脚本を手掛けた「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚(でっち)どん」で、僕らは全国的な人気となるわけです。

 アイデアマンで、「笑いの王国」結成の翌35年には、雁之助・小雁と僕の3組に合同結婚式を挙げさせ、テレビで生中継させました。日本初のテレビ結婚式です。

 実は、僕はその直前に付き合っていた彼女と別れてしまっていたのですが、先生は「新しい相手を探せ!」。神様はいるもので、テレビ局に歌のオーディションに来ていた、当時OLの瑤(よう)子さんに一目ぼれ。その日にプロポーズしました。ちょっと強引でしたね。

 ところが人気が出るようになって、先生と一緒に夜の街へ遊びに行くと、顔が知られている僕だけがウケる。それが面白くなかったのか、他にもいろいろあって、先生と確執が生まれた。先生が僕に後輩の演劇指導を命じておきながら翌日には違う演出に変えてしまったり、僕だけを無視して他の人としゃべったり。演技をめぐってそりが合わなくなって雁之助・小雁たちも去り、劇団は解散しました。

 もっとも、先生はコメディーだけではなく、40年代に放送されたテレビドラマ「細うで繁盛記」の板前役、「どてらい男(やつ)」の支配人役で、僕の新境地を開いてくださった。喜劇人として育ててくれたのは、まぎれもなく花登先生。若くして亡くなられましたが、今でも毎年、京都市内にあるお墓にお参りをしています。

 〈その後もドラマ、舞台やのど自慢番組、コメンテーターなど活躍の場を広げていく〉

 いろんな人に恵まれました。特に、舞台の夫婦役などでご一緒したミヤコ蝶々先生にはお世話になりました。あの人はその場でせりふをしゃべりながら演出するタイプで、急に筋が変わることがしばしば。でも、そういうのは花登先生のコントで慣れています。稽古は厳しかったけど、楽屋ではゴシップ話が大好き。「お前、あの子とはどうなったんや?」とか、よくからかわれました。

 お世話になったといえば、30年代に戻りますが、東京の大御所で音曲師の柳家三亀松(みきまつ)先生。司会者時代に地方公演でかわいがっていただきました。

 当時の上方では落語や漫才から有名になる人が多かったけど、僕はそれまでになかった劇場コメディーの出身。三亀松先生は「せっかく芽が出たのだから」と心配してくださった。そして、落語家の笑福亭松鶴さんや桂米朝さんといったそうそうたるメンバーを集めて、「崑をいじめるなよ」と言ってくださった。おかげで、そうした皆さんと懇意にさせていただきました。

 他にも、鼻メガネの大先輩、三木のり平先生、渥美清、谷幹一、石井均、藤田まこと、森光子…。お世話になった方を数え上げたらキリがありません。(聞き手 豊田昌継)