喜劇役者・大村崑(2)芸能界に憧れ「メガネのボーイ」に

話の肖像画

 〈昭和初期、神戸随一の繁華街だった新開地(現在の神戸市兵庫区)近くで生まれ育った〉

 父親は写真館、母は電気店を経営していて、そこそこ裕福な家庭でした。近くに劇場や芝居小屋があって、父親はそこへ出演する女優さんにごちそうするなど“盛んな人”でした。その口実として、自宅を出る際に僕を連れ出すんです。でも、芝居小屋の楽屋に僕を預けると、そのままどこかへ消えてしまう。一方、残った僕は劇団の人たちにかわいがられました。ときには白粉(おしろい)を塗られて舞台に上がりました。そういうので芸能界入りをたきつけられたんでしょうか。

 ところが、9歳のときでした。父が腸チフスで亡くなり、母ときょうだい4人の一家はバラバラになってしまうのです。僕は伯父宅に預けられました。伯母が厳しい人でね。それまでは学校の教室で落語や寸劇をやっていましたけど、転校後はやんちゃなグループに入り、ケンカに明け暮れていました。

 高校は神戸市立第一機械工業学校(現・市立科学技術高校)でしたが、ちょうど戦争で学徒動員もあって、通った記憶がありません。終戦を迎えても学校へ行かずに、進駐軍の倉庫へ忍び込んで塩を盗んだり、軍から入手したたばこを巻き直したりして売る“闇物資商売”を手がけました。そのころ、進駐軍に出入りしていた「山田勇」という男に出会いました。のちに「漫画トリオ」で人気者になった横山ノック(元・大阪府知事)です。でも、お互いにこのときのことは口に出せなかったですね。

 〈芸能界への憧れが強まり、近道として、多くの有名人が集まる神戸・三宮のキャバレー「新世紀」にボーイとして入る〉

 当時、水商売はメガネ姿がダメでした。僕は小学生のころからかけていたので当初は不採用。でも、オーディションで僕が面白おかしくしゃべるのを聞いていたオーナー夫人が「あの子、面白いわね」と口添えしてくれた。おかげで入店できました。ボーイと言ってもダンスホールやサロンを備えた大きな所でしたから、100人はいました。その中でメガネをかけているのは僕だけ。「メガネのボーイさんを呼んでください」とかえって目立ちましたね。

 「新世紀」には有名人がたくさん来ました。力道山さんや雪村いづみさん、江利チエミさん。華やかでした。店が終わったら、大学生や商売人と“賭け球”(賭けビリヤード)です。店主にチップを払って店を開けさせ、朝までやっていました。

 そんなある夜でした。ビリヤードの途中に何の気なしに痰(たん)を吐いたら真っ赤に染まっていた。僕は酒は飲まないけど、たばこはピース缶をバカバカ吸っていた。検査をしたら肺結核。右肺を切除しなければならないほどの重症で、医師に「40歳で死ぬ」と宣告されました。この話は、つい最近まで内緒にしていました。だって、コマーシャルで「元気ハツラツ!」と言っている男が片肺だったと知られたら、スポンサーや世間に申し訳ないじゃないですか。

 療養は1年半ほど続きましたが、何とか「新世紀」に復帰しました。ボーイ以外にショーの司会も任されました。そんな中、雪村いづみさんのマネジャーに「プロの司会者になりたい」と声をかけたところ、のちに「素人名人会」の審査員で知られる司会者の大久保怜さんを紹介してもらいました。(聞き手 豊田昌継)