平昌パラアイスホッケー代表・上原大祐(1)障害はマイナスではなく「武器」

話の肖像画
平昌パラリンピックの会場で=韓国・江陵(共同)

 〈イマドキの若者はよくこう言われる。挑戦しない、感情に乏しい、インターネットばかりでコミュニケーション能力が育っていない。そんなイメージを持っている人も、この人を見ていると、考えがガラリと変わる。底抜けに明るくて超プラス思考、やりたいこと満載。車いすで、英語もしゃべれないのに米国へ武者修行に行っちゃうのだ〉

 障害があるからできない、と思うと思考停止でしょう。僕はあきらめない。挑戦しないままできないことなんて、この世の中に一つもないと思っていますから。方程式は「無理×アイデア=可能!」、つまり難しいことのように見えても、アイデアや工夫をすればできることはいっぱいあるんですよ。

 そうやって(障害のある)子供たちに、たくさんの「できた」を届けたい。あきらめない気持ちや、チャレンジ精神、夢を持つことにつながります。

 〈3月の平昌パラリンピックでは、日本代表チームの中でもひときわ小さい身体(145センチ、53キロ)で、大男ぞろいの外国人選手にぶつかってゆく姿が印象的だった。背番号32は「ミニ」のもじり。持ち味は、スピードとキープ力。米国で名をはせ、世界のトップ10選手に選ばれたことも〉

 競技を始めたころは(激しいぶつかり合いで)毎試合、脳振盪(しんとう)ですよ。恐怖心もありました。デカいのが、ガンガン来るんですから。でもそこで、ひるんじゃうと逆にやられてしまう。どうかわすか、どう倒すか、どのように当たれば大丈夫なのか、を懸命に考える。僕は「体2割、頭8割」でやってましたから。

 米国でプレーするのはエキサイティングで面白かったですね。言葉なんてできなくても、パスを回すだけで分かり合えるんです。競技レベルはもちろん、チームの数や普及の度合いも、まるで日本とは違う。日本の選手は米国やカナダへもっと修業に行くべきです。

 〈平昌パラリンピックで競技生活は引退。今見据えているのは、2年後の東京オリンピック・パラリンピックだ〉

 東京を、パラスポーツを「日常化」する大会にしたい。そのときだけのイベントじゃなく、終わった後もメディアが取り上げて、競技人口も増えるようにしなければなりません。僕は、そのお手伝いをしたいと思います。健常者と障害者の共生社会をうたっていても、日本はハード面では立派ですが、ソフト面や意識では残念ながらまだまだですね。

 僕はね、障害をマイナスではなく、むしろ「武器」としてとらえて発展させたいと考えているんですよ。障害者を起点としたものづくりとかね。実際、カーディガンやストローなど、障害者が使いやすいように、ということからつくられ、一般に普及したとされるものも多い。そこにビジネスチャンスがあるんです。(聞き手 喜多由浩)

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【プロフィル】上原大祐

 うえはら・だいすけ 昭和56年、長野県軽井沢町生まれ。二分脊椎という生まれつきの障害があり、幼いころから車いすで生活。19歳でパラアイスホッケーを始め、平成18年のトリノパラリンピックは日本チーム最多得点、銀メダルに輝いた22年バンクーバー大会のカナダ戦では決勝ゴールを決めた。米国での競技生活も経験。今年3月の平昌大会で代表復帰、チームは参加8カ国中8位。現役を引退し、2年後の東京大会に向け、NPO法人「D-SHiPS32」代表などとして、さまざまな活動に取り組む。