【話の肖像画】相沢病院理事長・相沢孝夫(2) 父の急逝、34歳で副院長に - 産経ニュース

【話の肖像画】相沢病院理事長・相沢孝夫(2) 父の急逝、34歳で副院長に

父、正樹氏(右)と
 〈小平奈緒が所属する長野県松本市の相沢病院は今年創立110年を迎える歴史ある民間病院だ。明治41年に祖父の曽兵衛氏が開設し、相沢が小学生だった昭和32年に父、正樹氏が院長を継いだ〉
 物心ついたときから友達や周囲の人は僕が相沢病院の息子だと知っていたし、誰も強制しなかったけれど、何となく医師になって父の後を継ぐんだろうなという流れは感じていました。とはいえ、思春期はそういうのに反発するんですよ。医者にはならないとか、違う道に進みたいとか思った時期もありました。でも、僕は運命の流れに無理に逆らっちゃいけないと思うタイプ。結局は県立松本深志高校から父と同じ東京慈恵会医大へ進みました。
 当時は出身大学の医局でしばらく勉強してから地元に戻るのが普通でした。ところが父が体を壊し、周囲から戻った方がいいんじゃないかと言われたこともあり、卒業後は松本に帰り、慈恵ではなく信州大の第二内科の医局に入れていただきました。第二内科の先生たちは相沢病院にアルバイトに来てくれるなど交流もあったし、行ってみようかなって。
 〈幸い父親は回復したため、実家の病院ではなく信州大で腎臓病の研究に没頭した。医局に研究班をつくり、国の研究費をもらったことも。長野赤十字病院(長野市)に2年間派遣されることが決まったが、研究日は松本の信州大に戻って研究し、また長野に帰るという生活を続けるほど研究が好きだった〉
 日赤病院に派遣されて2年目の4月だったと思うんですが、指導してくれている信州大の教授から電話がありました。「お父さんに進行がんが見つかって、どうも余命2、3カ月だ。すぐに帰ってきなさい」と。研究もあり、日赤病院にも2年の約束で派遣されていたので迷いましたが、教授が「お父さんがこんな状況だから、おまえは帰りなさい。日赤病院には自分が責任を持つから」「お父さんのことを考えれば、今から相沢病院に勤めた方がいい」と言ってくれました。それで、僕は研究をやめて相沢病院に帰ってきたんです。病院のマネジメントなんてやったことのない人間が急に帰ってきて、父親の後を継ぐのは大変でしたけど。
 〈正樹氏はその年の7月、胃がんのため65歳で亡くなった。昭和56年8月、正樹氏の弟、前田恒雄氏が慈泉会3代目理事長、相沢病院院長となった〉
 僕は34歳とまだ若いし、叔父は父と一緒にやっていたので理事長と院長に、僕は副院長として全体のまとめ役になりました。博士号を取っていなかったので、病院で働きながら論文を書いて、審査に通って博士号ももらいました。研究と臨床を両方やり、気持ちはまだ中途半端でしたね。
 当時の相沢病院は内科医は僕を入れて4人と小さく、往診にも行きました。亡き父は「患者さんが困っているんだから診に行くのは当たり前だろう」という考えの人。その父を見て育っていましたから、僕も往診は好きでした。家庭の事情だとか人間関係だとか、実際に見て初めて分かることがたくさんある。このとき教えられたことが、在宅医療に力を入れる今の相沢病院の基盤になっていますね。
 〈昭和から平成にかけて、診療報酬(医療機関に支払われる治療費)は改定ごとに右肩上がり。病院はただ同じことをやっていれば収益が上がった。ところが、そんな時代は長くは続かなかった〉(聞き手 道丸摩耶)