【話の肖像画】元バレーボール選手・川合俊一(3)「息子を五輪選手に」…夢がかなってしまった - 産経ニュース

【話の肖像画】元バレーボール選手・川合俊一(3)「息子を五輪選手に」…夢がかなってしまった

ソウル五輪の米国戦で=昭和63年
 〈バレーボールの活躍が注目され、明治大学付属中野高校から昭和56年、日本体育大学に進む〉
 当時の明大中野バレー部は生徒主体に練習メニューやスケジュールを考えていました。だから試合に負けると、とことん悔しい。監督の指導下だったら、少しは監督のせいにできますが、全部自分たちに返ってくる。自主性が出てくるわけです。だから、強豪校の選手がそろっていたわけではないのに、全国ベスト8にまでなりました。
 日体大は寮生活がきつかった。当時は朝6時に太鼓が鳴って起床、運動、掃除、エッサッサ(日体大独自の応援スタイル。上半身裸で行う)。大声を出しながら長い廊下を雑巾がけするのが何より苦しかった。外出時の服装の決まりは、下は紺のジャージー、上は袖に黒マジックで「川合」と名前を書いた白いTシャツ。頭はスポーツ刈りですし、都心好きの僕もなかなか外出をためらいました。
 〈日体大在学中に全日本入り。58年、翌年のロサンゼルス五輪の切符がかかったアジア選手権の中国戦で大活躍してチームは優勝、日本は五輪出場を決めた。五輪にもチーム最年少で出場、日本は7位〉
 おやじの「息子を五輪選手にする」という夢を僕も追ってきて、達成してしまった。おやじは厳しい人でほめられたことがなかったけど、五輪出場を決めたときは「おめでとう」と言ってもらえました。おやじの夢が「五輪で金メダルを取る」だったら、もう少しいけたのかもしれない。五輪選手の夢がかなって、僕も心のどこかでほっとしてしまったのかな。
 〈当時、バレーボールブームが起こった。会場は若い女性であふれ、選手の追っかけも登場した。川合もブームのきっかけの一人だ。決まった髪形やおしゃれな服装が注目された〉
 周囲からは「新人類」と言われましたね。
 全日本の合宿に、人気だったチェッカーズみたいにサイドを刈り上げて前髪を伸ばした髪形で参加したら、コーチに前髪を切られちゃった。移動はスーツが義務づけられていたのですが嫌で、一度「ジーンズとTシャツで移動させてくれ。絶対に活躍するから」と約束し、めちゃくちゃ頑張って活躍したら、その後、全日本の服装が自由になったこともありました。
 デザイナーの知り合いもできてショーで使った服とかをいただいて着ていましたから、派手だったんでしょうね。
 〈60年、日体大から実業団のトップチーム、富士フイルムに入る。バレーブームは続いていた〉
 試合会場は若い女の子で埋まっていました。会場や練習体育館の外には出待ちの子もいて、ファンレターやプレゼントを山ほどいただきました。あんまり多いときには、常連のファンの方が持ってくれたほどです。
 カップルで来てくれる方も多かった。恐らく女性がファンで、彼氏を連れてきたのでしょう。そんなときは一層頑張りました。カップルはデートでバレーの試合を見に来てくれたはずです。試合後の食事で試合の話になります。そのとき、いい試合を見せられなかったら、彼氏は「川合、ダメだな」と思ってしまうし、会話も弾まない。彼女に連れられて来たにせよ、彼氏に「いいな」と思ってもらいたかったんです。(聞き手 小川記代子)