元バレーボール選手・川合俊一(2)父が立てた「五輪出場作戦」

話の肖像画
中学1年、バレーボールを始めたころ=昭和50年

 〈育った家は、東京都大田区のとんかつ屋。新潟県糸魚川市で生まれ、8歳のときに家族で引っ越してきた〉

 新潟で、おやじは無遅刻無欠勤のまじめな会社員だったんですけど、病気で1カ月ほど休職したら降格されてしまった。それで会社を辞め、上京して商売をすることに。前の会社の人たちは「上京したって絶対に失敗する」と言っていたらしい。おやじは「商売で成功して見返してやる」と誓ったけど、実際に商売を始めてみると、大変で難しい。それで「子供を五輪選手にして見返してやる」と思った。ここから僕の五輪への道が始まりました。

 当時の僕は体を動かすのが嫌い。足も遅くて、男女混合のマラソン大会でも最後から2番目にゴールするくらい。体育の通信簿は良いときで「3」。頭で考えるのが得意で、囲碁や将棋が好きでした。それでもスポーツに向かわされたんです。

 おやじはバスケットボールの選手だったので、小学生のときはバスケを特訓されていましたが、進学する近所の公立中学はバスケよりバレーボールのほうが断然強いと知ると、バレーに方向転換。おやじはやったことのないバレーを勉強し、中学のバレー部の練習のほか、店の休日には近所の多摩川土手で親子で特訓しました。

 〈方向性が少し変わっている〉

 まず、おやじが目指したのは、背を伸ばすこと。筋肉をつけると背が伸びにくいとどこかで教わったようで、中学1、2年のころは「筋肉をつけるな」と言われました。もちろん毎日牛乳1リットル、睡眠はたっぷり、おやつは骨を作るカルシウムが豊富とされるちりめんじゃこやしらす干し、煮干し。何もないと、だしをとるかつお節を1本しゃぶったりしていました。子供が食べるようなお菓子は、誕生日とクリスマスの年2回しか口にできませんでした。

 〈思春期の男の子にとってはなかなか厳しい生活だが、素直に従った〉

 親に「お前は反抗期がなかった」と言われますね。だって、自宅がとんかつ屋です。両親の仕事を目の前で見ているんです。大変な仕事なんですよ、本当に。朝5時半に起きて仕込みをして、掃除して、昼は店のほかに出前もして、夕方から仕込みして店開けて、全部終わるのは夜の10時とか11時です。そんな姿を見ていると反抗する気にならないですよ。「すげえ、親って」となる。

 子供に反抗させないためには、親が自分が一生懸命に働く姿を見せたほうがいいですよ。「おやじ、すげえ」と思わせないとね。

 〈父の作戦は徐々に実を結び、中学入学時に160センチだった身長は卒業時に183センチに。中学3年で全国大会準優勝に輝き、数々の高校からスカウトが来た〉

 僕、東京の子供なんです(笑)。いくら強豪でも郊外に行きたくなくて、都心の明治大学付属中野高校を選びました。明大中野はスポーツ強豪校で、特にバスケットボール部は強かった。そこまで強くなかったバレー部は、体育館が日曜午前しか使えない。それ以外は外で練習です。レシーブで胸から滑り込んでも痛くないよう、胸に雑巾をあて布のように縫い付けました。それでも、カバーしきれない首筋に小石が食い込むので、休憩時間にピンセットで取ったりしていました。(聞き手 小川記代子)