作家・編集者 末井昭(2) 看板描きから編集者に

話の肖像画
自我と現実との落差に悶々としていた20代(本人提供)

 〈高校卒業後、大阪・枚方の工場に就職した〉

 東京オリンピック直後で、高度経済成長を象徴する工場に憧れていました。でも、中に入ってみると大違い。単調で危険な作業の連続で希望もない。3カ月ももたず、夜中にふとん袋を背負い、鈍行列車で東に向かいました。

 行き先は、父が出稼ぎに来ていた川崎市のアパート。とりあえず昼間は父と同じ自動車工場で働きながら、早朝は牛乳配達、夜は時計組み立ての内職とレタリングの通信講座に取り組みました。

 上京してグラフィックデザインという仕事があることを知り、絵が得意だったのでそれで食っていけると思ったんです。お金をため、東京・渋谷にあった専門学校の夜間部に入学しましたが、学生運動の波で学校封鎖が始まり、勉強はほとんどできない。学校を辞めてデザイン会社に就職しました。

 〈横尾忠則さんらの前衛的なグラフィックデザインに感化された。キャバレーや風俗店に所属し、オドロオドロしいポスターや看板を描くようになる〉

 「どうだ!」と描いたデザインが、なかなか採用されない。バカ騒ぎしているフロアの下の寒い地下室で筆を握り、貧乏で行き場のない、社会の底辺にいる深海魚のような気分でモヤモヤがたまっていきました。アンチモダニズムの思想に固まっていて、深夜、頭から真っ赤なペンキをかぶってストリーキングをしながら地面を転げ回ったこともあります。

 〈その後、ふとしたきっかけから編集者へ転向することになる〉

 フリーの看板描きになってお金が入り出したころ、キャバレーの元同僚がエロ本の出版社に転職して仕事をくれたんです。結局つぶれて給料未払いで大損しましたが、そこで出会った人たちと一緒に仕事をするようになりました。後に白夜書房を創業する森下信太郎さんから、「エロ総合誌」の創刊を1人で任されて、昭和50年、月刊「ニューセルフ」を立ち上げたんです。27歳でした。

 当時のエロ本は、ゴチャゴチャと下品に作ったものが売れるというのが常識でしたが、僕はスマートな本を作ろうと思いました。自分の好きな人に原稿やイラストが頼めるのは編集者の特権。月刊「ガロ」(アングラ色が強く一部から熱烈に支持された漫画誌)の「赤色エレジー」が大好きだった林静一さん、作家の田中小実昌さん、嵐山光三郎さん、赤瀬川原平さん、イラストは吉田光彦さん、南伸坊さんなどサブカルチャーを代表する方々にお世話になりました。ギャラはそんなに払えなかったけれど、文句をいわれたことはありませんでした。エロには遠そうな評論家の平岡正明さんにバックナンバーを見せたら、「分かった!」と。「体力論精力篇」という難しい論文を書いてくれました。

 特に印象深かったのが写真家の荒木経惟(のぶよし)さん。もともと大ファンでした。電話で原稿と写真を依頼したら「いいよ」って。都電荒川線に乗って東京・三ノ輪まで会いにいくと、荒木さんがジーパンにゲタでカラカラ歩いてきました。喫茶店で原稿をもらい、すぐにカバンにしまおうとしたら「読まないの?」って。編集者のしきたりも知らずに走り出していたんです。預かった写真は、銭湯の煙突が白い煙を出している面白いパノラマショットで、「地球がたばこを吸っている」というキャプションに一気に緊張がほぐれました。(聞き手 重松明子)