タイ警察大佐・戸島国雄(3) 自衛隊から大事件現場へ“転身”

話の肖像画
タイ警察でともに働く人たちと食事(本人提供)

 〈山口県下関市で造園業の父のもと、7人兄弟の三男として育つ。柔道に打ち込み自衛隊、警察へ〉

 子供の時分はやんちゃで、地元警察から呼ばれて柔道でしごかれた。今では講道館六段。タイにも柔道着10着を持参して、野外のコンクリートに敷いた畳の上で、アジア大会の選手に稽古をつけました。(六~八段の)紅白帯を締めていたけど、タイ警察幹部から「お前はそんなに強いのに、まだ黒帯(初~五段)がもらえないのか」と誤解されました。

 警察で柔道を教わった先生の勧めで陸上自衛隊に入り、大分・別府駐屯地で重迫撃砲教育を受けましたが、集団行動で面白みがなく、いやになりました。そんなとき、日本で唯一の落下傘部隊である習志野第1空挺(くうてい)団(千葉)の存在を知り、志願。厳しい試験を通過しました。24期生として、階級や年齢も関係ない最精鋭が全国から集まりました。落下傘で海に落ちた想定で真冬のプールで泳いだり、富士山から習志野に歩いて帰ったり。今も空挺同志会の集まりは続いています。

 自衛官をしながら夜間大学を卒業し、警察官を目指しました。警視庁の機動隊が自衛隊のレンジャー訓練を受けに来ており、国民の安全を守る仕事もいいな、と思ったからです。千葉県警や神奈川県警にも受かりましたが、一番給料が高い警視庁に入りました。

 〈そこで鑑識の仕事に出会う〉

 警察官になったら刑事になりたかった。しかし、警察学校で検視官の講義などを受けるうち、その事件捜査を左右するのは鑑識だと知りました。事件・事故が多い蒲田署での勤務を希望して配属、所轄勤務を終えると、空挺団出身で体も良いというので、本部の機動隊から推薦状が来ました。それでも、鑑識を希望しました。

 昭和45年11月に発生した三島由紀夫割腹事件は、本部の鑑識課に異動して初めての大事件の現場でした。自衛隊市ケ谷駐屯地(東京)に着くと、自衛隊の業務隊長から「お前、何でこんな所に来ているんだ」と怒られました。彼は空挺団出身で、一緒に落下傘降下をした同士。私が警察に転職したことを知らなかったんです。

 以来、タイへの出向以外は、定年まで警視庁刑事部鑑識課一筋。普通は途中で再び所轄などに出るのですが、異例です。

 〈昭和の大事件に相次いで臨場した〉

 57年2月8日未明に33人の死者を出した、ホテルニュージャパン(東京)の火災発生時は、鑑識課の宿直勤務でした。警視庁の屋上から見ると、国会議事堂近くの総理官邸が燃えているように見えましたが、後ろが火災現場でした。翌日、現場検証をしているのに、ホテルに入っている店は早く店を開けたい。警備のアルバイトに、「火災現場には誰も入れるなよ。幽霊が出るぞ」と脅し、その足で羽田に向かいました。2月9日に羽田沖で日航機が墜落したのです。数日後、火災現場に幽霊が出るとの噂が週刊誌に載り、上司に呼ばれて怒られました。

 ロス疑惑や日航123便墜落事故、トリカブト保険金殺人事件、宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件。ほかにも多くの大事件を手がけました。人生に無駄はなかった。私の経験と、体で覚える仕事のやり方。今、これをタイの若手捜査官に伝えています。(聞き手 吉村英輝)