歌舞伎俳優・松本白鸚(3) 被災地から届いたサンマ

話の肖像画
「勧進帳」1000回目の公演は、奈良・東大寺で初めての奉納歌舞伎となった(松竹提供)

 〈源頼朝に追われる主君、義経を命がけで守ろうとする弁慶と、安宅(あたか)の関を守る富樫との対峙(たいじ)を描く「勧進帳」。高麗屋(こうらいや)(松本幸四郎家の屋号)にとって特別な演目だ。白鸚の祖父にあたる七代目松本幸四郎が、生涯で約1600回演じ、歌舞伎の代表演目にした。自身も16歳から弁慶を1100回以上、47都道府県で演じ続けている〉

 七代目幸四郎の祖父は戦後、「勧進帳」を引っ下げ、全国を回りました。歌舞伎の地方巡業は戦時中、各地の駐屯地を回った慰問興行に端を発しています。祖父は地方の学校の講堂や映画館のベニヤ板の所作舞台でも、弁慶を演じ続けました。それがどれほど、占領下の日本人を励ましたことか。歌舞伎復興の礎、大きな力にもなったと思います。

 祖父にとって、演じる場所は関係なかった。一流の役者は、歌舞伎座でも河原でも道端でも、来てくださったお客さまを感動させなければいけない。私も16歳で弁慶を初役で演じてから、52年かけ、全47都道府県を巡演しました。金剛杖(こんごうづえ)(弁慶の小道具)を片手に歌舞伎を待ってくださる方々のもとを行脚し、お慰めする-祖父の偉大さが実感できました。

 〈平成16年11月には、沖縄県で初めて「勧進帳」を上演した〉

 祖父の時代は沖縄返還前で、歌舞伎は伺えませんでした。この沖縄公演のきっかけは、沖縄の女性から頂戴した、ゴーヤーマン(沖縄の人気キャラクター)のイラスト入りの絵はがきなんです。歌舞伎好きのお父さまが父(初代白鸚)の弁慶を何度も見て、その感動を繰り返し語っていたけれども、今は体が不自由になってしまった。沖縄で「勧進帳」を上演してほしい-という内容でした。

 すぐに沖縄公演を松竹に提案し、時間はかかりましたが、那覇公演当日は、はがきの女性も杖を手にしたお父さまといらっしゃってくださった。たかが一芸能ですが、非常に人間的なことをしていると思います。いつの日か沖縄で再び「勧進帳」ができたらと思います。

 〈戦争や自然災害の後こそ、“心の復興”を願い、高麗屋は旅公演を続けてきた。24年には、東北のファンから思いがけない贈り物を受け取った〉

 「ラ・マンチャの男」1200回のとき、東日本大震災で被災され、仮設住宅に住む岩手県の方から、青くピカピカに光ったサンマをたくさん、送っていただいたんです。お礼の電話を差し上げたら、あなたの「勧進帳」と「ラ・マンチャの男」に勇気づけられたから、お祝いですって。その晩、大根おろしで頂いたサンマのおいしかったこと。ぽろぽろ涙がこぼれました。役者の仕事ってこういうことなんだ、って思い知らされました。

 ただ技芸を見せるものではなく、思いをきちんとお伝えしなければならない。

 〈今年4月、名古屋・御園座での襲名披露興行で、「勧進帳」の弁慶を演じる〉

 新開場する御園座のこけら落とし公演で、どうしても弁慶を、とご要望を頂きました。名古屋は播磨屋の祖父(初代中村吉右衛門)、父(初代白鸚)も毎年のように伺って、私も半世紀以上のお付き合いがあります。1月の新幸四郎の弁慶も、刺激になった。息子といえどもライバルです。私はお客さまが望んでくださる限り、弁慶を演じ続けたいと思います。(聞き手 飯塚友子)