歌舞伎俳優・松本白鸚(2) 時代物にお客さまが泣いていた

話の肖像画
初舞台の楽屋で。左からGHQのバワーズ少佐、本人、初代松本白鸚(本人提供)

 〈新白鸚の歩みは、戦後の歌舞伎復興の道程と重なる。初舞台は昭和21年5月、焼失した歌舞伎座に代わり、歌舞伎公演の軸となっていた築地の東京劇場。二代目松本金太郎を名乗り、「助六」の外郎売伜(ういろううりせがれ)を演じた。連合国軍総司令部(GHQ)のフォービアン・バワーズ(1917~99年)が父、初代白鸚の楽屋を訪ね、3人で一緒に写った写真が残っている〉

 マッカーサーの側近だったバワーズさんは芸術全般に理解があり、戦前から歌舞伎がお好きだった。日本語も堪能でしたから、楽屋にもよく来られました。播磨屋(はりまや)の祖父(初代中村吉右衛門)の芸が好きで、子供の頃、東京・渋谷の自宅から歌舞伎座まで進駐軍のジープで送ってもらったこともあります。

 〈当時3歳。出番が近づくと泣きわめき、周囲を困らせたという。戦後、GHQは「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」など、忠義のための切腹や身代わり劇を、封建的と上演禁止にした。しかしバワーズが担当官になったこともあり、22年に解禁される〉

 バワーズさんは歌舞伎のため、動いてくださった。歌舞伎の時代物と呼ばれる古典が蘇り、客席には戦争のご遺族の方が大勢みえられました。(主君のため、わが子を犠牲にする)「一谷嫩(いちのたにふたば)軍記 熊谷(くまがい)陣屋」や「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ) 寺子屋」の上演中、よく初老のお客さまが泣いておられました。当時、私は幼くて分かりませんでしたが、戦場で亡くしたご主人やご子息と、役を重ねてごらんになっていたのでしょう。そういう時代でした。

 〈歌舞伎の名門・高麗屋に生まれた宿命として、稽古事と舞台に追われる学生生活を送る〉

 10代の頃は稽古が嫌でした。舞台のため学校を早退した翌日、舞台化粧が耳の後ろに残ったまま朝礼に出るといじめられる。「歌舞伎をやめる」と母(初代吉右衛門の娘)に言って泣かせたこともあります。連日、夜中まで続く母とのやり取りを、父は黙って聞いていました。でも翌日、父は何事もなかったように「車引」の松王丸を精いっぱい演じていた。私はその姿に胸打たれ、もう一度役者をやろうと思った。とことん芸の修行に自分をほうり込んでみたら、いじめよりもっとつらかったです。

 〈10代からラジオドラマや映画にも出演。「勧進帳」の弁慶も、16歳で初めて演じた。36年2月には、弟の現中村吉右衛門=当時、萬之助=と松竹から東宝に電撃移籍することが明らかになる〉

 報道が出たのが早稲田大学の受験当日。試験場に取材陣が殺到しました。ほかの受験生の迷惑になると、外に出て記者さんに「試験終了次第、お話しします」と言いました。仕事をするってこういうことか、と思いました。移籍はテレビが台頭する中、旧態依然とした歌舞伎界を憂える父が決断しました。

 〈東宝に移籍し、東宝歌舞伎や現代劇に出演。重役で劇作家・演出家だった菊田一夫との出会いが、歌舞伎俳優でミュージカル俳優、という前人未到の道を歩むきっかけとなる〉

 22歳の時に越路吹雪さんと「王様と私」に主演したのが最初のミュージカルです。今でこそ歌舞伎俳優が現代劇や映像で活動するのは珍しくないですが、当時は皆無で風当たりは強かった。中村屋のおじ(十七代目中村勘三郎)は、「ミュージカルも現代劇もやれる役者に、歌舞伎ができないはずない」と励ましてくれました。(聞き手 飯塚友子)