ダウン症の書家・金澤翔子 母・泰子(3) 自分だけが苦しんでいた

話の肖像画
金澤翔子さんと両親。裕さんと泰子さん(提供写真)

 ダウン症の子供は、みんな異常なほどに優しいんですよ。不思議です。

 〈翔子さんの母、泰子さんにもう少し話を続けてもらおう〉

 ダウン症の子は、通常より染色体が1本多いのです。私は長い間、染色体が1本多いことを嘆いてきましたが、実はこの1本多い染色体が優しさをみせてくれているのではないか、と思うようになりました。この優しさがみんなを癒やすんです。

 翔子は普通学級からの転校を言われた後、自宅で半年ほど「般若心経」を書いて過ごし、結局、遠くの学校の特別支援学級に移りました。登校初日、翔子は親の苦悩と心配をよそに、けろっとして楽しそうに帰ってきました。その時、苦しんでいたのは親の私だけだった、と気が付いたのです。自分の思う通りの子供でなかったから私は苦しんだ。世間体や子供の将来を悲嘆していた。でも、翔子は障害を認識しておらず、何も苦しんではいなかったのです。

 翔子は、ただ私の苦しみに寄り添い、慰めようと一緒になって苦しんでくれていたんです。本当に優しい子です。そのあたりから、私自身も変わり、将来に少し希望を持てるようになったんです。

 〈そんな折、再び転機が訪れた。大黒柱の夫、裕(ひろし)さんが心臓発作で倒れ、そのまま他界してしまったのだ。夫は52歳、翔子さんは14歳だった〉

 貿易会社を経営していた夫が死ぬと、次々と借金の取り立てが現れ、通帳からアッという間にお金が無くなっていきました。私は海外に赴き、会社の事業所を閉鎖し、事業も畳みました。頼りにしていた私の妹も亡くなり、母娘の2人きりで、途方に暮れて引きこもりの状態になったのです。

 さらに、18歳で学校を卒業した翔子が作業所に入ろうとしていたとき、ちょっとしたトラブルで入れなくなってしまいました。当時、「仕切り屋・翔子」というあだ名をつけられていたほど、翔子は仕切りたがり屋でした。それも原因だったのでしょう。やることもなく、翔子は太ってしまいました。

 そんなときに思い出したのが、在りし日の主人の言葉でした。「翔子が20歳になったら個展をやろう。そして、みんなに来てもらい、翔子がダウン症であることを公表しよう」。主人は、自分では積極的に書道をする人ではなかったのですが、翔子の書の才能を誰よりも認めていました。

 18歳だから、まだ間に合う-。一生懸命準備を始めました。生涯に一度だけ、翔子の個展を盛大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思い切って夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろうと決意したんです。夫も喜んでくれるだろう、という思いもありました。

 そしてついに、翔子が20歳になったお祝いに、東京・銀座で最高の会場を借りて個展を開き、豪華な図録を作りました。帝国ホテルで記念レセプションも開催しました。ここまでやれば、私が倒れ、翔子が施設に入ることになっても認めてもらえるのではないか。そんな考えもありました。

 この個展がメディアに取り上げられて話題となり、多くの方に来ていただきました。翔子の書を見た多くの来場者が涙を流していました。私も全力でやりきって満足でした。でも、それは始まりにすぎませんでした。(聞き手 内藤泰朗)