ダウン症の書家・金澤翔子 母・泰子(2) 絶望の底で書いた涙の書

話の肖像画
金澤翔子さんを抱える母親の泰子さん(提供写真)

 〈翔子さんは東京都大田区の書道一家の一人娘として生まれた。自分ではうまく言葉で説明ができない。代わりに、母親の泰子さんが子育てをしていた昔について語った〉

 実は30年前に翔子を育てているときは、翔子はこの社会には存在してはいけない子供だと思っていました。世間体も大きかった。そういう時代でした。翔子は勉強はできないし、何をやってもビリだし、教えることもできない、教えてもダメだ、翔子の存在は社会にとってマイナスなだけだと思っていたんです。本当のことを言えば、翔子と2人で死んでしまおうと思ったこともあります。

 知能が低く、1人では生きていけないと言われました。この子を残していくのは家族に申し訳ない、そんな子ならば、いっそ、と思ったわけです。翔子を産んだのは42歳のとき。高齢出産が原因だと思い込んで自分を責めたり、「治してください」と神様に祈ったり、奇跡が起きないと天を呪ったりしました。絶望の日々でした。周囲に障害のことを隠して育てていました。本当に大変でした。

 障害のある子の母親は、子供の障害を告知されたときから、だいたいみんなどうやったら社会に迷惑をかけないように育てていくか、ということを考えます。私もそうでした。そのときに考えたのが、孤独の中で黙々と作業する書道はいいかな、これだけは身につけさせてあげたいということでした。

 〈泰子さんの夫、裕(ひろし)さんは父親から引き継いだ貿易会社を経営する一方、書道にも明るかった。夫の実家は、中国・明時代の書家、王鐸(おうたく)が書いた漢詩を食卓で輪唱するような家だった〉

 ただ、書道を教えるというよりは、一緒に書くという感じでした。でも、思い通りにいかなくて、翔子を叱ってばかりいましたよ。

 〈そんなとき、1つの“事件”が起きた〉

 翔子は最初、小学校の普通学級にいましたが、小学4年のときに別の学校の特別支援学級に移るように言われたんです。私が書道教室を開き、翔子も学校に慣れて友達もでき、うまくいっていました。しかし突然、転校になったことにショックを受け、一時、学校に行かなくなりました。友達はいなくなり、家にいる時間だけが長くなり、このままではダメだ、何とかしなければ、と思い、276文字あるお経「般若心経」を大きな紙に書かせることを思い立ちました。

 でも、親が子供に教えるのは本当に難しい。なぜ書けないのか、と怒ってしまうのです。それでも、翔子は涙を流しながら書きました。1行書いて墨と涙を乾かすたびに、「ありがとう」と私にお礼を言って温かいミルクティーをいれてくれるんです。自分の方が疲れているのに。あのとき、3千字は書かせました。

 教えたわけではないのですが、叱られながら苦しい思いをして難しい漢字を書いたことで、書道の基本ができたのだと思います。約1400年前の中国の楷書(かいしょ)の大家、欧陽詢(おう・ようじゅん)の書体が身についてしまったんです。苦しい中で翔子は書き、私も自分の苦しみを翔子にぶつけた。この体験を通して、書の中で私と翔子は深く強く手を握り合えたのです。もし、あのとき普通学級に通い続けていたら、翔子は書家になっていなかった。苦しい中、一緒に難しい般若心経を書いていなかったら、今の翔子はないと思います。(聞き手 内藤泰朗)