PR

エンタメ エンタメ

【話の肖像画】歌舞伎俳優・中村獅童(48)(9)本当にうれしかった一言

前のニュース

舞台「丹下左膳」で初めて主演を務めた。着流しのドクロ柄にもこだわった =平成16年12月、東京・新橋演舞場(c)松竹
舞台「丹下左膳」で初めて主演を務めた。着流しのドクロ柄にもこだわった =平成16年12月、東京・新橋演舞場(c)松竹

 《映画「ピンポン」(平成14年)に出演後、宮藤官九郎脚本の「木更津キャッツアイ」や三谷幸喜脚本の「HR」といった人気民放ドラマやNHK大河ドラマ「新選組!」など、次々と仕事が舞い込むようになった》

 映画が公開され、新人賞をいただいたころから、世の中の風景がぱっと変わりましたね。一日にしてこんなにも変わるものなんだと驚きましたよ。でも年齢がもう30歳だったから、絶対これで浮かれてはだめだと肝に銘じて、賞を取った喜びは今日は思いっきり喜んで、明日は忘れないとあさってはないという気持ちでいました。

 映画やドラマへの出演をきっかけに、歌舞伎を見ない人たちも中村獅童を知ってくださるようになった。そして歌舞伎でも群衆の一人である“並びの役”から急に真ん中のいい役をいただけるようになったのだけれど、追いつくのが精いっぱいで。加速する“中村獅童”に追いつけないんですよ。何度も自分を見失いそうになった。

 《16年12月、32歳で東京・新橋演舞場で初座長公演「丹下左膳(たんげ・さぜん)」で主演を務めた。文豪・林不忘(ふぼう)が生み出したニヒルで無敵の剣士役だ》

 歌舞伎の舞台や叔父の(萬屋)錦之介のチャンバラを見て憧れていたから、丹下左膳を演じるのはすごくうれしかった。左膳は右目右手を失っているんだけれど、僕はもともと、左利きだから殺陣(たて)とかうまくこなせそうに思うかもしれない。でも僕は歌舞伎の舞台は右利きで演じないといけないというので何でも右手を使っていたから、逆に最初はやりにくかったんですよ。

 僕は本当に、人に恵まれているんです。心が折れそうなとき、あきらめかけているときに一生懸命、応援してくれる人がいるから。「あなたはできる」って言い続けてくれた両親もそうだし。五代目中村勘九郎の兄さん(のちの十八代目中村勘三郎、平成24年死去)も僕がいつか主役を演じられる日が来るとずっと信じてくれた。

 25歳ぐらいのときだったかな。勘九郎の兄さんが大阪でいつも行くバーがあって、そこに7、8人で飲みに行ったんです。その席では僕が最年少だったので、隅のほうで先輩たちの話を黙って聞いていたら、兄さんが僕のほうを指して「あそこにいるの、あの子はえらくなるよ」って突然、話を振ってきたんです。

 そしたら、そこにいた先輩たちが笑ったんですよ。確かに僕は歌舞伎の舞台では“並びの役”しかやっていないし、「下手だ、下手だ」って言われてきたから、そんなのあり得ないと思って苦笑したんだろうけれどね。勘九郎の兄さんはすかさず「いま笑った人、全員追い抜かれるからね。覚悟しなさいよ。よくなるよ、あいつは」と言ってくれて本当にうれしかった。

 僕がブレークした後、勘九郎の兄さんがある食事会の席で「僕はね、当たりくじを引いたんだよ。みんな、獅童がこんなふうになると思っていなかったでしょう」って。兄さんってすごく記憶力がいいから、その場にいた一人一人の顔を見ながら「あんた、あのとき笑ったでしょう。はい、はい、君もはずれ。僕は当たりくじを引いた人」って。しかも、勘九郎の兄さんは「丹下左膳」の舞台に、ゲスト出演もしてくれたんです。(聞き手 水沼啓子)

次のニュース

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ