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【追悼】内田裕也さん 夢に生きた純粋な男 映画監督・崔洋一

内田裕也さんはロック歌手や個性派俳優など、幅広い分野で活躍した(平成17年撮影)
内田裕也さんはロック歌手や個性派俳優など、幅広い分野で活躍した(平成17年撮影)
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 内田裕也さんは複雑な人で、一言で言い表すのは難しい。時に優しく、時に反社会的な顔ものぞかせる。私にとっては映画監督になる道を切り開いてくれた恩人だった。

 初めて会ったのは、私が20代後半の助監督時代で、俳優の松田優作さんが主演した「最も危険な遊戯」(昭和53年、村川透監督)の出演交渉のときだった。

 内田さんは、英ファッションブランド「バーバリー」のアンティークのコートを自然に着こなし、終始無表情。けんかっ早いという評判があったので恐ろしかったが、話を聞き終わると「優作の映画なら俺は喜んで出ますよ」と快諾してくれた。実際は拍子抜けするくらい優しい人だった。

 その後、私は内田さん主演の「十階のモスキート」(58年)で監督デビューする。きっかけは相当に酔っ払った内田さんからの夜中の電話だった。

 「崔さん、一緒に映画作ろうよ」。映画の企画を温めていた内田さんは依頼していた脚本家と決裂。「俺さあ、すごく頭にきてるからさあ、自分で脚本を書く。崔さんが監督してよ」というのだ。

 うれしかった。3日後、脚本が私に郵送された。実際の事件を基に、追い詰められ、郵便局強盗を働く警察官の姿を描いた物語だった。内田さんの大胆な発想とがっしりとした骨格がそこにはあった。私が手直しを加え、共同脚本という形を取った。

 とことん落ちていく警察官の暴力、悲しみ、孤独、打ち砕かれる希望…。俳優としての表現力の有無などとは別次元で、内田さんには「存在感の妙」とでもいうものがあった。犯罪に手を染める警察官をごくナチュラルにスルスルッと演じてしまった。

 撮影ではよくぶつかり合った。内田さんは「こう撮ったらどうだろう」と、やたら前衛的な映像にしたがるのだ。私も血気盛んだったので「だめです」と片っ端から却下したが、内田さんはいつも「分かったよ」と監督である私を立ててくれた。

 映画が完成した後も折に触れ、私を酒席に誘ってくれた。「俺は死ぬまでロックンロールをやるよ」といつも語っていた。「お互いにじじいになったらまた一緒に仕事しよう」と約束もした。(昨年9月に75歳で亡くなった妻の)樹木希林さんの話をすることはなかった。彼は家庭よりも自分の夢を追う男だった。

 平成29年に、テレビ局のノンフィクション番組で内田さんの日常生活に1年間密着する機会を得た。「じじいになったら一緒に仕事を」という約束を果たしたかったからだ。年越しライブの姿などを撮影したが、内田さんは想像以上に弱っていて、呼吸ができず肩で息をしているような状態だった。だが病気に負けず、死ぬまでロックをやるんだ、という彼の気概を撮ることができたと思う。

 内田さんは突然逝ってしまい、いまだに動揺している。でも、心残りはない。(談)

                   

 ロック歌手で俳優の内田裕也さんは17日、肺炎のため死去した。79歳だった。

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