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【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(4)

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梶原一騎
梶原一騎

 ■梶原一騎「マガジンの紅緑に」 スポ根で「漫画原作者」確立

 昭和34(1959)年3月に同時創刊された「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)の漫画が占める割合は当初、どちらも半分程度でしかなかった。残りは、少年小説や絵物語、プロ野球や大相撲などの読み物・記事、科学のコーナー、テレビの情報、ニュースなどがごった煮のごとく並んでいた。

 両誌が、お手本にしたのは大正3(1914)年に創刊され、大衆小説の人気作家、佐藤紅緑(こうろく)(1874~1949年)や、吉川英治の小説、「のらくろ」「冒険ダン吉」の漫画などによって、少年読者の心をわしづかみにした「少年倶楽部(後にクラブ)」(現在の講談社発行)である。紅緑は、詩人のサトウハチロー、作家の佐藤愛子(95)の父。特に、昭和2年から同誌に連載された「あゝ玉杯(ぎょくはい)に花うけて」は、貧しい少年が艱難辛苦(かんなんしんく)の末に、第一高等学校(旧制)に合格するという“熱血物語”を描き、少年たちの圧倒的な支持を得て、同誌の部数を飛躍的に増加させている。

 後に、漫画原作者という新たなジャンルを確立させる梶原一騎(かじわら・いっき)は「マガジンの佐藤紅緑になってほしい」と口説かれ、大出世作となった「巨人の星」(41年から連載、画・川崎のぼる)の原作を書く。梶原に白羽の矢を立てたのは40年に30歳の若さでマガジンの3代目編集長に抜擢(ばってき)された内田勝である。梶原は、すでにマガジンでも、プロレスの力道山に弟子入りする少年を主人公にした「チャンピオン太(ふとし)」(37年~、画・吉田竜夫)をヒットさせていたが、本来は小説家志望で、漫画にかけるウエートはまだまだ重いとはいえない。

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