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【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(3)「週刊」に尻込み、ちばてつや 口説き文句は「作画に専念」

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漫画家、ちばてつや氏(松本健吾撮影)
漫画家、ちばてつや氏(松本健吾撮影)

 ちばてつや(80)と同世代の漫画家には、旧満州(現中国東北部)や大陸からの引き揚げ者が多い。赤塚不二夫、古谷三敏(ふるや・みつとし)、森田拳次、北見けんいち、高井研一郎…。ちばの漫画家としての原点も満州にある。終戦後、ソ連(当時)軍や中国人の襲撃、略奪から逃れるため、息を潜めていた屋根裏部屋で幼い弟たちのために色鉛筆でつたない絵を描いた。それを喜んでくれたうれしさが忘れられなかったのである。

 高校生でデビュー、少女漫画を描いていた、ちばに注目したのは、講談社の少女向け月刊誌から「週刊少年マガジン」の初代編集長に就いた牧野武朗(たけろう)だ。

 昭和34(1959)年に同時創刊した小学館の「週刊少年サンデー」は、マガジンに先んじて人気漫画家を押さえ、部数でもリードを続けていた。巻き返しのために牧野が起用を考えたのが、ちばである。サンデーでは、寺田ヒロオの野球漫画「スポーツマン金太郎」が創刊号から大人気。マガジン側はそれに勝てる新しい野球漫画を、ちばに描かせたかった。

 ところが、ちばは「週刊誌」と聞いて1年近くも逃げ回る。締め切りは月刊誌の4分の1。すべて自分でやりたいタイプのちばが及び腰になるのも無理はない。「描きたい気持ちはあったんですが、先輩が週刊誌連載でさんざん苦労しているのを見ていましたからね。僕は構成やキャラクターを考えるのに時間がかかる。週刊誌の連載はとても無理だと断ったんです。当時は、野球も知りませんでしたから」

 マガジンはあきらめなかった。後に、マガジンの4代目編集長となる宮原照夫を担当にし、(1)原作者をつけるので、ちばは作画に専念すればいい(2)野球に詳しい宮原がイロハから教え、資料も集める-という条件を提示。「そこまでフォローしてくれるのなら…」と押し切られ、36年1月から連載が始まりヒットしたのが「ちかいの魔球」(原作は福本和也)であった。

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