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【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(1)対照的社風、創刊前から死闘 娯楽分野が得意の講談社/漫画家獲得は小学館先行

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「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の創刊号(復刻版、高柳義也氏提供)
「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の創刊号(復刻版、高柳義也氏提供)

 「週刊少年サンデー」(小学館)と「週刊少年マガジン」(講談社)が同時創刊された昭和34(1959)年に小学館へ入社し、草創期のサンデー編集部に在籍した天野博之(あまの・ひろゆき)は講談社へ入っていたかもしれない。父親と当時の講談社社長、野間省一(のま・しょういち)が南満州鉄道(満鉄)時代の同僚だったからだ。だが、父親の世話になりたくない天野は小学館を受けて入社。くしくも東京教育大(現筑波大)の同期生、内田勝(まさる)は、多数の希望者の中から、“くじ引き”に勝って学科推薦を獲得し、講談社へ入社。後に少年マガジンの3代目編集長に就任する。

 34年1月から小学館へ出社した天野が驚いたのは、社内にみなぎる「2つの高揚感」だった。

 1つ目は、3年前から講談社との間で死闘が繰り広げられた「学年誌戦争」勝利のメドがついたこと。小学館の屋台骨を支えてきた「小学一年生」などの雑誌に対し、講談社は「たのしい一年生」などのタイトルで挑戦状をたたきつけたが、堅い牙城を崩せなかった。

 2つ目が、間近に迫っていた「初の少年向け週刊誌」の創刊である。漫画・スポーツ・科学・テレビを4つの柱とする総合情報雑誌で、当初は34年の、こどもの日(5月5日)の発刊を予定していた。

                   

 ところが、講談社も同様のプロジェクトをひそかに始動。正式にゴーサインが出たのは同年1月末で、2月から出社した内田は、右も左も分からぬまま、少年マガジン創刊に向けた新編集部に配属される。

 学年誌に続き全面対決となった両社。カラーは対照的だ。小学館は学年誌に代表される硬派の教育・学習分野に強い。一方の講談社は娯楽色が強く、特に少年向け雑誌では「少年倶楽部(後にクラブ)」が戦前、圧倒的人気を誇っていた。得意の娯楽誌の対決で負けるわけにはいかない。

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