戦犯扱い、日銀のトラウマ 実体ないインフレにおびえ 物価「2%」の壁…反リフレ派台頭も

平成30年史 デフレの呪縛(4)

 「実は今、手元に講演録を持っている」。11月16日に開かれた全国銀行協会の定例記者会見。会長で三菱UFJフィナンシャル・グループ社長の平野信行は紙を取り出し、「金利を下げすぎると、金融仲介機能が阻害され、かえって金融緩和の効果は反転する可能性がある」と一部を読み上げた。

 この講演の主は、日銀総裁の黒田東彦(はるひこ)。就任翌月の平成25年4月に「黒田バズーカ」とも呼ばれる大規模な金融緩和を導入し、デフレ退治の「先兵役」を担ってきた。だが、11月13日にスイスのチューリヒ大で、海外の専門家が唱える「リバーサル・レート」という考え方を紹介し、緩和の負の側面に言及したのだ。

 大規模緩和は国債の大量購入で市場にお金を大量に流し込み、企業や家計が資金を調達しやすくして投資や消費の活性化を図る。それがひいてはデフレ脱却につながるとの狙いがある。

 リバーサル・レートは、緩和の長期化で超低金利環境が続くと、金融機関の収益が圧迫されて貸し出しが伸びなくなり、かえって経済の足を引っ張るという考え方だ。黒田は講演で「こうしたリスクにも注意していきたい」と語った。

 三菱UFJなど3メガバンクは超低金利で利ざやが縮小し、人員削減を含む構造改革を余儀なくされている。平野はリバーサル・レートに近い状況が「今その姿を現しつつある」と力を込め、日銀に政策の見直しを求めた。

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 しかし、この講演は「もちろん、(黒田の)本音というより、文案は日銀企画局が作文している。現企画局長の思いがにじみ出ている」。ある日銀幹部はこう明かす。

 日銀企画局は金融政策の企画・立案を担い、局長は日銀の「エース中のエースポスト」といわれる。3月に就いた加藤毅は前総裁・白川方明(まさあき)の「子飼いで、気持ちとしては反リフレ派」と、幹部は声をひそめる。

 リフレ派はデフレ脱却に向けて大胆な金融緩和をいとわない。これに対し反リフレ派は、緩和がむしろインフレを招くことを警戒する伝統的な日銀の立場だ。

 「前局長も白川派だったが、黒田の就任以来、それまでの考えを捨て支えてきた。現局長はリフレの弊害が出てきた中で着任したので副作用に言及しがちだ」。幹部はこう指摘する。

 文案には黒田も納得しているというが、「デフレファイター」として一枚岩を誇ってきた「黒田日銀」に微妙な亀裂が生じつつある現状をうかがわせる。今後、日銀内のリフレ派と反リフレ派の路線対立が顕在化すれば、金融政策運営が迷走する懸念も否定できない。

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 日銀内の変化の背景には大規模緩和の導入から4年半以上たっても、目標の物価上昇率2%を達成できていないことがある。大規模緩和は当初「2年間で物価上昇率を2%に引き上げる」と掲げたが、達成時期の先送りは6回に及んだ。足元の物価上昇率は0%台後半と2%にはほど遠い。

 それでも首相の安倍晋三が黒田に寄せる信頼は厚い。「手腕を信頼している。デフレではない状況を短期間で作り出すことができた」。安倍は11月1日の記者会見で、黒田をこう評価した。

 物価目標は達成できておらず、政府もデフレ脱却宣言は出していないが、大規模緩和は円安・株高をもたらし、輸出企業を中心に企業業績は過去最高水準。物価上昇率はマイナス圏を脱している。黒田日銀の政策運営が安倍政権の経済政策「アベノミクス」が一定の成功を収める「立役者」になったのは間違いない。

 黒田は来年4月に任期が切れるが、政府、日銀関係者の間では続投が既成事実のように語られる。

 黒田は物価目標2%の旗を振り続けるのか。

 欧米の中央銀行は日銀と同じく目標に掲げた2%の達成以前に、金融緩和策を手じまいする「出口戦略」に動いているが、日銀には2%の旗を簡単には降ろせない事情がある。市場に、金融引き締めへの転機と受け止められれば、マネーの流れが逆流して円高を招きかねない。日銀内には、「デフレの戦犯」と非難された過去の「トラウマ(心的外傷)」もある。

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 平成24年10月5日、東京は秋晴れに恵まれた。金融政策決定会合の2日目を迎えた日本橋の日銀本店に、当時、経済財政担当相の前原誠司を乗せた黒塗りの車が滑り込んだ。

 「結果を出すことが極めて重要だ。デフレ脱却が確実となるまで、強力な金融緩和を継続するよう期待する」

 議事要旨には、前原とみられる「内閣府の出席者」の発言が残されている。決定会合は政府関係者に議決権はなく、会合の場で日銀に追加緩和を求めた前原には「日銀の独立性が脅かされる」との批判も出た。

 10年施行の新日銀法は金融政策の政府からの独立性を明記している。政策運営が政治的な思惑でゆがめられないようにするためだ。ただ、当時の民主党政権が日銀への緩和圧力を強めていたのにも理由はある。

 23年3月11日の東日本大震災後、円高が急激に進行して8月には1ドル=75円台をつけた。原発事故に伴う電気料金の高騰や高い法人税実効税率も重なり、日本経済が抱える問題は「六重苦」とも「七重苦」とも呼ばれた。

 それでも当時の日銀総裁、白川方明(まさあき)は「物価安定の望ましい姿の実現には(日本経済の)成長力強化も不可欠だ」と繰り返し、小出しの緩和策に終始した。「不作為」とも映る政策運営は後に円高・デフレの深刻化を招いたとのそしりを受けることになる。

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 白川がこだわったのは中長期的な視点を踏まえた政策運営の判断に関する「中央銀行の物差し」。これは、白川が「慈父のような存在」と慕っていた26代総裁の故・三重野康が常々、口にしていた言葉だ。「世の中には当然ながら多くの物差しがある。中央銀行には中央銀行の物差しがあって、他の物差しとギャップを生じる」。三重野は随想録にこう記し、他の物差しに安易に妥協することを戒めている。

 三重野はバブル経済がピークに達した元年12月に総裁に就任した。バブル退治に執念を燃やし、「平成の鬼平」との異名を取った。だが、急速な金融引き締め策は結果的に「失われた20年」といわれる長期のデフレ不況を招いてしまう。

 その後の日銀には、白川時代まで、過度な「インフレ恐怖症」との酷評が絶えなかった。「膨大な通貨供給の帰結は、歴史の教えにしたがえば制御不能なインフレを招く」。24年4月、白川は米ワシントンでの会合で、こう警告した。

 新日銀法は日銀の最大の使命として「物価の安定」を定めている。これは日銀にとって「インフレの抑制」を意味していた。戦後インフレやバブルの苦い教訓があったためだ。だが、白川も固執した「中銀の物差し」がデフレの泥沼にあえぐ日本経済にはそぐわない「独善」に陥っていた側面は否めない。独立性保持への拘泥がこうした姿勢に拍車をかけたともいえる。

 総裁が故・速水優だった12年8月、日銀は政府の反対を押し切りゼロ金利政策を解除した。福井俊彦時代の18年3月と7月にも日銀は政府内に難色を示す意見があったにもかかわらず、それぞれ量的緩和とゼロ金利の解除に踏み切った。いずれも市場などから「日銀は判断を急ぎすぎた」と、失策の烙印(らくいん)を押されることになる。

 10~14年にかけて日銀の審議委員を務めた中原伸之は「日銀は独立性にこだわりすぎ、実体のないインフレにおびえていた」と振り返る。

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 白川や福井、速水、三重野ら日銀出身者とは異なり、元財務官でアジア開発銀行総裁から日銀総裁に転じた黒田東彦(はるひこ)は、それまでの日銀の「物差し」を刷新した。だが、デフレ脱却を目指した大規模緩和が今、難しい局面に立たされているのは確かだ。

 物価目標の達成が遅れ、大規模緩和の副作用も意識される中、市場関係者の間では「丁寧に説明いただくことで、予見性が高まり、市場の安定につながる」(生命保険協会会長の橋本雅博)と、出口戦略の議論を求める声が上がる。

 もちろん、デフレ脱却の責務は日銀だけにあるのではない。政府には成長力の強化策が求められ、民間企業も賃上げなど消費喚起に向けた努力が不可欠だ。景気が回復していても物価上昇が鈍いのは世界的な現象で背景には経済や社会の構造的な変化も指摘される。

 ただ、日銀がかじ取りを誤れば、デフレ不況に逆戻りしかねないのは、これまでと同じだ。

 「中央銀行は、常に変化する現実の世界と対峙(たいじ)する」。黒田がスイスでの講演で語ったように、日銀が現実を直視した効果的な政策を断行できるかが「デフレの戦犯」との汚名をそそげるかを大きく左右することになる。(敬称略)=おわり

 大柳聡庸、佐久間修志、臼井慎太郎、万福博之、米沢文が担当しました。