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【新聞に喝!】新聞記事はひとごとか 美術家・森村泰昌

小池百合子都知事(酒巻俊介撮影)
小池百合子都知事(酒巻俊介撮影)

 「現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄る習慣である。切棄てなければならない程世間が切迫しているのだから仕方がない」

 これは夏目漱石の小説「三四郎」の一節である。この後文章はこう続く。「その証拠には新聞を見ると分る。新聞の社会記事は十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである」

 なぜそんなに冷めているのかというと、そうやって「切棄てなければならない程世間が切迫している」からなのであり、それはもう「仕方がない」ことなのだという。

 新聞記事を「ただ事実の報道として読むだけ」と言い切れるかどうかには疑問が残る。新型コロナウイルスの感染拡大がもたらす多くの重症者や死者、生活苦による自殺者の増大、破産、倒産など重苦しい記事内容に心を痛める読者も少なくはないだろう。

 しかし他方ではこんなケースもある。小池百合子都知事の「このまま行くと、全然楽しくないゴールデンウイークが待っている」という4月13日のコメントが話題になった。私が気になったのは、この「全然楽しくない」発言の前段、大阪の感染者数が千人を超えたことを受け、「(大阪の状況は)ひとごとではなく自分事だと理解していただかなくては何も進まない」との内容を語った箇所だった。

 まずは大阪をひとごととして遠目に眺め、その後にひとのふり見てわがふり直せというわけである。都知事としては東京だけが自分事であるのは当然かもしれない。しかしここには、他人の悲劇をひとごととして「切棄てなければならない程世間が切迫しているのだから仕方がない」という、漱石の皮肉混じりの指摘が見事に当てはまる。

 夏目漱石は新聞小説によって数々の代表作を生み出したいわば“新聞の執筆者”であった。ならば新聞自体のクオリティーにも無関心ではおれなかったはずだ。新聞が「ただ事実の報道として読むだけ」のメディアであることには飽き足らず、遠い場所や普段は疎遠な人々に起こった悲劇であっても、自分事として感じとる「情操」を新聞紙上に反映させたいと考えて、小説という手法が選ばれたとは考えられないだろうか。

 何事もひとごとではなく自分事として感じ取れる「情操」力はいつの時代においても大切である。そしてこのことは情報の送り手だけではなく、受け手にも投げかけられた大きな課題だと捉えたい。

【プロフィル】森村泰昌

 もりむら・やすまさ 昭和26年、大阪市生まれ。京都市立芸大専攻科修了。ゴッホなど名画や歴史的な人物に擬した写真作品を発表。著書に「自画像のゆくえ」など。

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