【大阪特派員】山上直子 木戸、大久保、板垣も
このところ「会食」や「接待」がすっかり悪者だが、あまりに紋切り型の言いようは寂しい。
利害関係者から接待を受けるのは論外としても、飲食をともにして胸襟を開き、理解を深めて人間関係を築く…といった役割までは、否定されるべきではないだろう。特に政財界では。会食の場はしばしば歴史を動かしてきたのだから。
明治8年、いまだ混迷する日本で、立憲国家への道を開く重要な会議が開かれた。「大阪会議」の名で知られるが、その舞台となった大阪・北浜の料亭「花外楼(かがいろう)」(大阪市中央区)をご存じだろうか。
集った顔ぶれは、木戸孝允、大久保利通、板垣退助…とそうそうたる面々である。その背景を説明すると-。
明治6年、「征韓論」を主張する西郷隆盛や板垣らと、反対する岩倉具視、大久保、木戸らが対立。決裂して西郷らは下野した。木戸もその後、参議を辞職してしまい、大久保を中心とする政府は孤立してしまう。
当時、大阪の実業界にいてそれを憂えた井上馨や五代友厚が動く。木戸、大久保、板垣、それぞれの思惑を乗せて大阪会議が開かれて…。
結果からいうと、皆が折り合って政治改革について合意し、板垣や木戸が復職することになる。元老院・大審院・地方官会議などが設置され、立憲国家への礎が築かれた。
会議が成功裏に終わったことを喜んで、加賀国(現在の石川県南部)出身の先祖にちなみ「加賀伊」と称していた店の名を、「花外楼」と命名したのが木戸孝允である。
面白いのは、2月11日の会議の当日は、もはや政治の話は出なかったと伝わることだ。大阪の五代邸などあちこちで事前の会合があって、ここでの集まりはつまり、最後の仕上げだったのである。
「そうやと思います。大久保さんは孤軍奮闘していて、木戸さんに戻ってほしかった。伊藤(博文)さんがあれこれと動かれたようですから」というのは5代目女将(おかみ)の徳光正子さんだ。