【日曜に書く】論説顧問・斎藤勉 三島の「文革批判」今こそ
昭和45年、私が大学3年の初夏、著名な詩人で比較文学の教授だった安東次男氏の研究室に呼ばれた。度重なる授業欠席の叱責かと身構えたが、部屋に入るなり、一言、問われた。
「君は死ねるか?」
藪(やぶ)から棒の質問に面食らい、私は頭が真っ白になった。ぎこちない沈黙が続いた後、「もういい」と退出を促された。
左派全共闘が幅をきかせた学園紛争の真っ只(ただ)中で、安東氏は学生運動の側に立つ「造反教官」と言われていた。「造反」とは当時、中国全土を席巻していた文化大革命(文革)で毛沢東に踊らされた学生らの「紅衛兵」が唱えた「造反有理」(謀反には道理がある)からの借用だ。この四字熟語の立て看板は全国の大学に林立していた。
安東氏の問いは「政治信条に殉じる覚悟はあるか、という意味なのか?」と、ノンポリの私には重くのしかかり続けた。
約半年後の11月25日、作家・三島由紀夫が自決した(享年45)。自衛隊市ケ谷駐屯地で隊員らに決起と「憲法改正」を促す檄(げき)を飛ばした後、割腹した-との衝撃ニュースは大学近くの食堂のテレビで知った。その時、安東氏と三島という同じ文学者の、言葉と実際の行動による左右からの「死の提起」に挟撃されたような複雑な気分に陥った。
自決3年前の抗議声明
昭和41(1966)年5月に発動された文革は、毛沢東が「反革命・実権派」と称する政敵を殲滅(せんめつ)しようとした一大奪権闘争だった。毛思想はしかし、日本では全共闘や左派諸勢力を大学や政治・警察権力に盾突かせ、日米同盟やベトナム戦争への反対運動に駆り立てた。知識人の間でも文革「礼賛」派が圧倒的だった。朝日新聞は「“道徳国家”ともいうべきものを目指す」とまで持ち上げた。
日本の言論界が中国に沈黙する中でいち早く、異議を唱えた作家がいた。三島その人だ。同じ作家の郭沫若と老舎が、それぞれ自己批判させられたり、不可解な死を遂げたりしたのを受けた毅然(きぜん)たる行動だった。
三島は自決3年前の昭和42年2月28日、作家仲間の川端康成(翌年ノーベル文学賞受賞)、石川淳、安部公房を誘って帝国ホテルで会見し、自ら起草した抗議のアピールを発表した。