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【記者発】戦後75年、記憶の継承の「岐路」に 社会部・緒方優子

譲位前の平成31年1月に「戦没船員の碑」に花を手向けられる上皇ご夫妻=神奈川県横須賀市の観音崎公園(桐山弘太撮影)
譲位前の平成31年1月に「戦没船員の碑」に花を手向けられる上皇ご夫妻=神奈川県横須賀市の観音崎公園(桐山弘太撮影)

 戦日(いくさび)に 逝きし船人を 悼む碑の 彼方に見ゆる 海平らけし

 巨大な貨物船にゆったりと進む自動車運搬船、白い小さな漁船。群青色の穏やかな水面を、さまざまな色、形の船が行き来している。木々に囲まれた高台は静かで、セミの声だけが鳴り響いていた。

 先月、東京湾の入り口に突き出した神奈川・観音崎にある「戦没船員の碑」を訪れた。先の大戦で犠牲になった6万人超の船員を悼むその碑に、上皇さまは昭和46年の建立当初から折に触れ足を運び、平成4年に冒頭のお歌を詠まれた。

 戦後75年となる今年、碑を管理する日本殉職船員顕彰会を通じ、戦没船員の遺族や、仲間を失った生存船員の方々に取材する機会を得た。

 「75年もたったのですね」。昭和19年、当時15歳で見習い機関員として乗船した「月山(がっさん)丸」が魚雷攻撃を受け、同級生を失った千葉県市原市の水野孝さん(91)は、流麗な直筆の手紙で現在の思いを寄せてくれた。

 民間船員の犠牲者の約3割は、水野さんのように海員養成所を出て数年内の10代の少年だった。養成所で習った歌を今も時々口ずさみ、仲間を思うと「言い知れない悲しみに身をつまされ、胸が一杯」になるという。自分は「語り部」として残されたのかもしれない-。「私にとって戦後が訪れるのは、私の生を全うしたあと」。手紙に同封された顕彰会の広報誌への投稿文には、戦争の体験談とともにそんな決意もつづられていた。

 船員のおいや孫世代の遺族にも出会った。「誰かが覚えている、思い出すということが供養になるのではないか」。厨房(ちゅうぼう)員として乗り組んだ「徳島丸」が沈み、20代で亡くなった叔父の最期を調べているという男性(73)は、そんな思いを語ってくれた。

 今年は感染症の影響で、顕彰会主催の追悼式は中止となったが、本紙記事(8月10日付社会面)をきっかけに、同じ船の船員の遺族同士の交流が始まったといううれしい連絡もいただいた。

 戦争体験者や遺族の高齢化により、戦後75年の今年は記憶の継承の「岐路」とも表現される。今だからこそ、「聞きたい」「伝えたい」という人がいる。その矢印を、つなぐことができたらと思う。

【プロフィル】緒方優子

 平成22年入社。神戸、水戸勤務の後、27年から東京本社社会部。原子力取材班、警視庁捜査1課担当を経て、現在宮内庁を担当。

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