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【日曜に書く】将棋界の「2分の2」伝説 論説委員・中本哲也

王位戦七番勝負を制し、記者会見で揮毫した色紙を手にする藤井聡太新王位=8月20日、福岡市中央区の西鉄グランドホテル(村本聡撮影)
王位戦七番勝負を制し、記者会見で揮毫した色紙を手にする藤井聡太新王位=8月20日、福岡市中央区の西鉄グランドホテル(村本聡撮影)

 「私が取材した将棋の棋士は必ず名人になっている」

 「……」

 「これまでに取材した棋士は丸山忠久九段だけだけど」

 「必ずと言っても、たった一人ですか」

 「渡辺さんが2人目。丸山九段を取材したのは、プロ(四段)に上がる前の高校生のときだった。当時の丸山君に比べれば、竜王ははるかに名人に近い位置にいる」

 「それはそうかもしれないけど…」

負けられない戦い

 平成19(2007)年3月、東京・千駄ケ谷の将棋会館で当時の渡辺明竜王(現三冠)を取材した。

 最強のコンピューター将棋ソフト「ボナンザ」との公開対局を前に、渡辺さんは「3~4年のうちに、自分がコンピューターに負かされる姿は想像できない」と語った。公開対局の平手一番勝負では、112手で最強ソフトを退けた。

 冒頭に書いたやりとりは、取材の合間に交わした雑談のあらましである。13年余の年月を経て、「渡辺さんが2人目」は現実になった。

 「取材した棋士が必ず名人になる」という筆者の独り善がりの伝説は「1分の1」から「2分の2」に格が上がった。

 「たった2人ですか」と言われるかもしれない。けれど、3人以上の棋士を取材した記者で、その全員が取材後に名人になったという人は、いるだろうか。絶対にいない、とは言えないが、存在確率は極々(ごくごく)低いとみなしていいだろう。

 もちろん、丸山さんや渡辺さんの名人位獲得に、筆者の取材は何の影響も及ぼしてはいない。それでも、「2分の2」の伝説を自慢の種にすることは許される、と思っている。

AIとの共生

 丸山忠久さんを取材したのは昭和の終わり、昭和63(1988)年の暮れごろだった。

 早稲田大学が初めて導入した一芸入試にプロ棋士の卵が合格した、というので社会部の遊軍記者だった筆者は千葉県内の自宅に伺った。

 笑ったときの口元が少し非対称になって、はにかんだ表情に見えたことを覚えている。プロ棋士になれたらいいな、というのが正直な感想で、「激辛流」などと恐れられる棋士になることは、想像できなかった。

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