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【スポーツ茶論】コロナの8月 別府育郎

1964年東京五輪で、マラソン選手だった君原健二さん=北九州市八幡西区(桐山弘太撮影)
1964年東京五輪で、マラソン選手だった君原健二さん=北九州市八幡西区(桐山弘太撮影)

 田辺清は4歳だった。

 青森市内から数キロ離れた母親の実家に疎開していた。厠(かわや)の格子戸から朱色に染まる夜空がみえた。全身が硬直し、震えが止まらなかった。

 昭和20年7月28日、米国のB29爆撃機60余機が青森市内に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせ、市街地の9割近くを焼き尽くした。青森大空襲である。戦争はその18日後、8月15日に終わった。

 疎開先から市内に戻ると早くも民家が建ち並び始めた。進駐軍で働く近所の青年がボクシンググローブを携えてやってきた。物珍しさに人が集まり焼け跡の空き地は人垣のリングとなった。

 青年はグローブを田辺少年の手にはめ、スパーリングのまねごとを始めた。軽いジャブが田辺の鼻先をつぶし、涙が流れた。後に田辺は中央大学に進み、ローマ五輪のフライ級で3位となり、日本人初のボクシング競技のメダリストとなった。

 大学の2年後輩で合宿所で同室だった桜井孝雄は東京五輪で金メダルを獲得した。

 田辺は卒業後、名トレーナー、エディ・タウンゼントとともにプロの頂点を目指す。世界フライ級に君臨したオラシオ・アカバロをノンタイトル戦で倒し、正式挑戦の機をつかむが、網膜剥離(はくり)で視力を失い、無敗のまま引退した。

□  □ 

 エディは27歳だった。

 ハワイ州のアマチュア王者からプロに転向し、14戦目で初めて敗れた。悔し紛れにその夜はカードゲームに興じて安宿に泊まり、翌朝、仲間にたたき起こされた。

 「エディ、戦争だ」

 丘に駆け上がると戦艦アリゾナが燃える黒煙がみえた。16年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃だった。

 日本人とのハーフであるエディは難しい立場に陥ったろうが、あんなに何度も一緒に飲んだのに、戦時中の話は聞いたことがない。

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