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【朝晴れエッセー】駅前入院・6月29日

 「私、小説書こうかな。タイトル『駅前入院』で」

 「面白いねえ。そのときは私、装丁するよ」

 ふと口をついて出た言葉に2人で笑ったのはもう18年も前のこと。そんな冗談が飛び出すほど話のタネが尽きない日々だった。

 某駅前大学病院の病室で私たちは出会った。見晴らしの良い9階で、建設中の六本木ヒルズが毎日高くなるのを眺めながら、さまざまな病状の6人がともに過ごしたのだった。

 仕切りのカーテンは就寝時まで閉じられることはほぼ無し。他愛もないおしゃべりに延々と花が咲く。ときには隣の競技場の試合を双眼鏡でのぞいてみたり、一度だけ皆で外出許可をもらい近くのお寿司屋さんに繰り出したことも。カラっぽの病室を訪ねた看護師さんを大慌てさせてしまった。

 万事そんな調子で過ぎた日々は病を癒やすのに十分な後押しをしてくれた。そして皆の真ん中に、いつも彼女がいてくれた。

 入院時のアンケートに「今後の目標」を問うところがあり、そんなこと思いつかないなどと記した私と違い、彼女は毅然(きぜん)と「1日でも長く生きる」と書いたという。末子はまだ赤ちゃん。ある覚悟を胸に前だけを向いていこう、と決断したのだろう。

 2年あまり、苦痛は口にせずまず人を思いやり、笑顔しか見せなかった彼女。

 小説書こうか、なんて冗談だったけれど今でもくっきりと心に残っている情景なのだ。

 「何か書いてみたら?」

 これは、何となく彼女に背中を押されたのかな、という気もしている。美大出身の彼女の装丁は夢となってしまったけれど。

名雪京子(60) 横浜市港北区

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