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【風を読む】間に合わなかった東京五輪 論説副委員長・別府育郎

作曲家・編曲家の服部克久さん(宮川浩和撮影)
作曲家・編曲家の服部克久さん(宮川浩和撮影)

 昭和39年10月10日、前日の雨が嘘のように晴れ渡り、東京五輪の開会式が行われた。服部克久は日本体操協会の招きで国立競技場のスタンドにいた。一緒に観覧するはずの前田憲男は渋滞に巻き込まれ到着時の青空には航空自衛隊が描いた五つの輪があったというから、すでに式典の最終盤だった。

 2人は日本のポピュラー、ジャズの大御所だが、当時は服部27歳、前田29歳、気鋭の若手だった。服部は体操会場で入場行進などの伴奏を担当し、前田は女子の床運動でピアノを弾いた。レコードでは着地の振動で針が飛ぶからと、マットの横にアップライトのピアノを置いて生演奏で演技に合わせたのだという。他にクラシックから、宅孝二、山本直純らも参加した。

 打ち合わせは直前合宿の1回のみ。それで選手と合うのか問うと、前田は「簡単だよ。演技を見ながら着地の時にダン、と弾けばいいんだから」と笑った。服部は「合宿で酒を飲んでの音楽談義が楽しくてね。宅さんは僕らの作曲法に、そんなやり方があるのかと驚いていた」。戦前、戦後のクラシック界で活躍した宅が後年、ジャズに傾倒したのはその合宿の影響だろう。

 各国選手団もピアニストを帯同しての来日だった。ただ2人とも、チェコスロバキアの奏者の記憶がない。「チャスラフスカに見とれちゃって全く覚えていない。ゲスな言い方をすれば、いい女だったなあ」と前田がいえば、服部も「大人の女という感じだったねえ。その後の体操は子供の競技みたいになってしまったけど」と話した。

 この夏に開催されるはずだった五輪への期待を服部は「前の東京五輪は私ら若い人にチャンスをくれた。今度もそういう大会であってほしいね」と話した。前田はその横で「いいこと言うねえ」とうれしそうにはやした。

 3年半前の取材だ。2人とも鬼籍に入ってしまった。前田は2年前の11月に亡くなった。音楽葬で「A列車」に送られる前田に、葬儀委員長の服部は「まだしばらくは仕事をしたいと思っておりますので、上の方から、ぜひ見守ってほしい」と語りかけた。

 その服部も11日に亡くなった。2人が残した名曲、名編曲は数知れない。2人とも、2度目の五輪を楽しみにしていた。間に合わなかった。

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