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【日曜に書く】「幻」に終わらせたくない 論説委員・森田景史

人文字でレーニンの肖像などが描かれた1980年モスクワ五輪の開会式。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、日米などがボイコットした(ゲッティ=共同)
人文字でレーニンの肖像などが描かれた1980年モスクワ五輪の開会式。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、日米などがボイコットした(ゲッティ=共同)

 「歴史とは、避けられたかもしれない事柄の集積である」

 西ドイツの初代首相、コンラート・アデナウアーの言葉だという。ナチスの政治的迫害に歯をくいしばった人の警句は、乾いた響きに小気味よさを覚えながらも、その味わいは苦い。

 新型ウイルスの広がりで東京五輪・パラリンピックが延期となり、折に触れこの一行を思い出す。避けられたかもしれない難事、開かれたかもしれない五輪…と指折り数え、書けたかもしれない原稿がいくつ幻になったろう、と深いため息をつく。

モスクワ五輪から40年

 日本が米国などとモスクワ五輪をボイコットしてから40年になる。切符を手にしながら出場を果たせなかった「幻の代表」は182人を数えた。柔道78キロ級の藤猪省太(しょうぞう)氏(70)もその一人だ。東京五輪の延期が決まり、現役選手への言葉をメディアから求められる機会が増えたという。

 「まあ、明るく生きてきました。あまり難しく書かんとってください」

 筆者が数年ぶりにかけた電話の向こうから、耳心地よい関西なまりの言葉が返ってきた。

 国際オリンピック委員会(IOC)の公式サイトをたどると、モスクワ五輪の記事に「Fujii」の名が見える。「男子ハーフミドル級(78キロ級)は、ボイコットで最も偉大な名前を失った」と。

 世界選手権で4度頂点に立った藤猪氏は、山下泰裕らとともに金メダルが確実視されていた。最終選考会が開かれたのは1980年5月25日。日本オリンピック委員会(JOC)がボイコットを決めた次の日だ。

 試合では本名の「省三」ではなく「省太」と名乗った。次の人生、太く生きる-との意思表示だった。「思い出したくもないけど、これも経験者の務め。五輪はいろんな条件がそろわないと開けません」。当時、30歳。その日を最後に引退した。

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