【日曜に書く】論説委員・森田景史 「わが子」守り、必ず灯そう
紫式部は造語の名手だったという。
例えば『源氏物語』の中にある「ものうらめし」や「ものうらめしげ」、あるいは「なま憎し」や「憎らか」。
これらは他の平安朝和文にない表現だと、国語学者の大野晋さんが『日本語練習帳』に書き留めている。
◆造語の名手あり
大和言葉を耕すことで、生来の文筆の才をさらに富ませた人らしい。心のひだに奥深く分け入り、既成の表現で及ばなければ、造語によってより細やかな心情を描き出そうとした。そう伝わっている。
世の男たちが語彙の豊かな漢語の習熟へと傾く中、女史の創意は、北風をはねのけるような歩みの連続だったろう。
56年前の新聞に、「紅二点」の見出しが立った記事がある。昭和39(1964)年の東京五輪に向けて、開催準備を担う大会組織委員会には2人の女性通訳がいた。その一人、久野明子さん(80)は微苦笑交じりに振り返る。
「当時は、女性が四年制大学に進むのが珍しかった。就職もそう。卒業すれば花嫁修業、そんな時代でした」
慶応大学文学部を卒業したのは、開幕半年前。在学中に米国留学の経験があり、語学は腕に覚えがある。「売れ残り覚悟で」と飛び込んだ組織委で、配属されたのが国際オリンピック委員会(IOC)委員ら海外の要人をアテンドする渉外部だった。
◆「使命」に燃えて
聖火をギリシャから日本に運ぶ輸送派遣団を支援するため、インドのカルカッタ(現コルカタ)に飛んだのは8月下旬。組織委が命じたのは、無謀にも同伴者なしの渡航だった。
久野さんがホテルに着くなり電話が鳴る。「アナタ、日本ノ女性ネ。会ッテクダサイ」。現地の男性とおぼしき声の主に、なまりのある英語で誘われた。慌てて切ったのもつかの間、今度は部屋のドアノブががちゃがちゃと鳴る。現地の日本人に電話で助けを求め、事なきを得たという。