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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第5章 戦後75年(7) 戦後75年 記者たちの目に映った「楠公さん」(7)

 季長は同役で、郎党8人を率いて出陣。手傷を負いながらも一番駆けの武功を挙げたが、恩賞が出なかったため、わざわざ鎌倉まで出向いて恩賞を求め、領地と馬を得たのである。「御恩と奉公」で幕府に仕える御家人という名の武士たちが、決してただ働きしない存在であることがわかる。

 2度にわたる元寇は国土防衛戦だったため、鎌倉幕府は勝利しても得る土地がなく、恩賞に困った。報われなかった武士たちは、蒙古軍の2度目の襲来・弘安の役(1281年)から40年余後、後醍醐天皇の元に集まり、建武政権にも見切りを付けた後は足利尊氏を旗頭に担ぎ上げた。尊氏はせっせと恩賞を与え、鎌倉に代わる武家政権を樹立した。

 その尊氏も、利で動かない正成に一目置いていたと推測できる言葉が『太平記』にある。

 「正成が跡の妻子ども、今一度、(空しき)容貌(かたち)をも、さこそ見たく思ふらめ」

 湊川の戦いで自刃した正成の首実検をした後、河内の妻子の元へ首を送り届けたというのである。尊氏は宿敵・新田義貞の首にはこうした敬意は払っていない。「逆賊・尊氏」にも義の価値と重みを知る日本人の心があったのである。=完

                  ◇

 ■家康、室町幕府を反面教師

 室町幕府の脆弱(ぜいじゃく)さは、6代将軍・義教(よしのり)が暗殺される嘉吉(かきつ)の乱や、山名・細川の戦いを8代将軍・義政が抑えられなかった応仁の乱でもわかる。守護大名の勢力を削(そ)ぐことに精力を費やした義教は、播磨・美作(みまさか)の守護・赤松満祐(みつすけ)にあっけなく殺され、義政は11年間の乱の間、なす術もなかった。

 室町幕府滅亡後、江戸幕府を開いた徳川家康は400万石の直轄領を維持し、8万騎と号する直参(じきさん)武士団を擁した。直属家臣でもある譜代大名には政治を任せたものの、10万石前後の所領しか与えなかった。一方で加賀100万石を筆頭とする外様大名は政治に参画させなかった。

 最高職の老中は複数の合議制にし、奉行をはじめとする執行職は2人置いて輪番制にした。徹底した臣下の力の分散は、室町幕府を教訓にしたとみられる。家康は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』を愛読して源頼朝を尊敬していたと伝わるが、足利尊氏にはそうした言質が残っていない。

 この連載は荒木利宏、岩口利一、大野正利、新村俊武、藤崎真生、宮本雅史、安本寿久、山上直子が担当しました。

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