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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第5章 戦後75年(7) 戦後75年 記者たちの目に映った「楠公さん」(7)

 義詮が没し、望みがかなったのは正平22年・貞治(じょうじ)6(1367)年。38歳の時だった。23歳で亡くなった正行に遅れること19年である。室町の世を牛耳る義詮はなぜ、正行を敬慕し、厚く遇したのだろうか。

 「尊氏はくれっぷりの良い大将でした」

 作家の司馬遼太郎さんは尊氏を度々、そう評している。『梅松論』には、その気前の良さを示す逸話が書かれている。

 八朔(はっさく)(旧暦8月1日)に贈答し合う風習が流行し、尊氏の元には贈り物が次々と届くが、届くやいなや人に下すので、夕方には何一つ残らなかったという。このくれっぷりの良さが、恩賞に渋い後醍醐天皇や建武政権に不満を抱いていた武士たちに推戴(すいたい)された大きな理由だった。

 俗に、奉公衆3千騎という。足利将軍家が抱える直属武士団のことだ。後の徳川将軍家が旗本8万騎と豪語していたのとは対照的にその数が小さいのは、尊氏が気前よく恩賞を与えてしまい、直轄領が少なかったためである。

 正成を破って打ち立てた尊氏の室町幕府は、大きな所領を持つ守護大名の連合政権で、28歳で将軍職に就いた跡継ぎ・義詮は、中国地方の山名氏や大内氏を従わせることができないまま南朝勢力と戦った。31歳の時には、執事(後の管領)として信頼していた細川清氏に裏切られ、南朝方に京都を奪われる争乱も経験した。

 山名、大内両氏を帰参させ、ようやく幕政を安定させたのは33歳の時だが、その際に義詮は、山名時氏に5カ国もの所領を安堵(あんど)している。山名氏はその後も幕府から所領をせしめ続け、時氏の子の氏清の代では一族で全国66カ国中の11カ国の守護職を占め、六分一殿と呼ばれる権勢を持つ。利で動く家臣、守護大名たちの統制に苦労した義詮には、義で働き、どんな情勢でも裏切ることなく死力を尽くした正成・正行父子は、身近にいてほしかった武士だったことは容易に想像できる。

 『蒙古襲来絵詞(えことば)』という有名な絵巻物がある。鎌倉時代の文永の役で、肥後の御家人、竹崎季長(すえなが)が、未知の武器「てつはう」を使う蒙古軍相手に奮戦する姿を描いたものだが、興味深い絵も載っている。季長が幕府の御恩奉行、安達泰盛に直談判する姿も描かれているのだ。

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