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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第5章 戦後75年(7) 戦後75年 記者たちの目に映った「楠公さん」(7)

宝筐院の(左から)足利義詮の墓、楠木正行の首塚。足利氏の苦悩が垣間見える =京都市右京区(恵守乾撮影)
宝筐院の(左から)足利義詮の墓、楠木正行の首塚。足利氏の苦悩が垣間見える =京都市右京区(恵守乾撮影)

 ■憧れ、尊敬したくなる理由

 人がすれ違うのがやっとのような山門をくぐると、紅葉が自慢の庭が広がる。その庭を奥まで行くと、石扉(せきひ)で守られた墓と首塚が現れる。

 石扉の左側には二つ引両紋、右側には菊水紋が刻まれている。足利家と楠木家の家紋である。石扉前の石柱には、ここで眠る2人の名前が彫られている。

 〈足利寶筐院(ほうきょういん)殿墓〉

 〈楠正行朝臣(まさつらあそん)首塚〉

 前者は足利尊氏の嫡男で室町2代将軍の足利義詮(よしあきら)。後者は楠木正成(くすのきまさしげ)の嫡男で、正成の十三回忌を済ませた後に挙兵し、四條畷(しじょうなわて)の戦いで足利軍に敗れた楠木正行である。尊氏と正成という宿敵同士の跡継ぎ2人が、同じ境内で仲良く並んで眠っているのだ。

 京都・嵐山の臨済宗・宝筐院(ほうきょういん)に2人の墓と首塚がある経緯を、同寺の説明書はこう記す。

 〈正平(しょうへい)三年・貞和(じょうわ)四年(1348)正月、正行は四條畷の合戦で高師直(こうのもろなお)の率いる北朝の大軍と戦って討ち死にし(23歳)、黙庵(もくあん)はその首級を生前の好誼により善入寺(ぜんにゅうじ)に葬りました。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒(ほ)め称(たた)え、自分もその傍らに葬るよう頼んだといいます〉

 善入寺は、平安時代に建立された宝筐院の前身の名で、黙庵は南北朝時代に同寺を復興させた住職。黙庵は、足利軍との戦いに敗れて自刃した正行を惜しみ、首級をもらいうけて首塚を立てた。亡母の法要を機に黙庵に帰依した義詮は、正行が同寺に眠っていることを知り、自らの死後はその横に葬られることを望んだというのである。

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