【スポーツ茶論】黒沢潤 被災地で育った令和の怪物
“令和の怪物”こと、千葉ロッテ・マリーンズの佐々木朗希投手の出身地・岩手県陸前高田市を2011年春に訪れたことがある。東日本大震災で街が津波にのみ込まれ、壊滅状態となった直後のことだ。
40年前の夏に海水浴に興じ、うまい“磯ラーメン”に舌鼓を打った思い出もあるこの地は“地獄絵”と化していた。ゴロリと土に転がる食卓の茶碗(ちゃわん)、泥まみれの子供の玩具、砂をかぶった病院の注射器…。高さ10メートルの松の木の枝には男性用の白いランニングシャツが幽霊のように何枚もぶら下がり、津波が異常な高さに到達した様子を痛々しく伝えていた。一方、近くの山々では桜が競うように美しいピンクの花を咲かせ、残酷なコントラストを描いていた。
この壮絶な光景こそが、震災当時、小学3年だった佐々木の「被災地の原風景」だったろう。
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津波で彼は父や祖父、祖母を失った。残された母や、幼い兄弟たちの悲しみは、いかばかりだったか。
それを乗り越え、成長した佐々木をやがて甲子園常連校が欲しがる。だが隣町の公立・大船渡高校へと進んだ。
甲子園出場経験のある県内私立校の元校長(78)は「(母や兄弟たちを残して)自分だけ野球のために故郷を去ることに抵抗があったのだろう」と心境を推し量る。
大船渡高校は地元の進学校だ。本人いわく、得意科目は数学だという。
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高校卒業を控えた1月中旬、千葉・幕張の球場に彼の練習を見に行った。体つきのいい他の新人に交じってなお頭1つほど背が高く、手足も実に長かった。「3桁(100マイル=約160キロ)の速球を投げる『次なるオオタニ』」と米紙ロサンゼルス・タイムズが注目するのもうなずけた。
佐々木を見守ってきた岩手県高野連の大原茂樹理事長(52)は163キロ右腕について、「彼の『全力投球』を見たことがある人はいないのではないか。顔をしかめ、歯を食いしばって、というのがなかった高校3年間だったかもしれない」と余力を指摘。その上で、「打者が面食らうのは、スマートに、しなやかに、そして静かに(速球が)来るからだ」と解説する。