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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第5章 戦後75年 記者たちの目に映った「楠公さん」(1)

 阿南大将の本土決戦論は、本土上陸する米軍に日本は手ごわいと実感させたうえで和平するという一撃和平論で、その手ごわさを支えるのは楠公精神だという考えだった。武器も物資も乏しい戦いを可能にするものとして語られるのが楠公精神なのである。

 こうした経験も踏まえて楠木正成連載を始める前、筆者には2つの正成像があった。1つは天衣無縫、縦横無尽な戦術で鎌倉幕府の大軍を打ち破る名将像である。千騎で千早城(現大阪府千早赤阪村)に籠城し、数万とも数十万ともされる幕府軍に大木、大石を落とし、煮え湯や油を浴びせ、幕府軍に厭戦(えんせん)気分を充満させて、ついには倒幕を実現した合理主義者の姿といってもいい。

 その正成が、復権した後醍醐天皇の親政・建武の新政が行き詰まった時、武士たちの支持を集める足利尊氏との和睦を上申したことも合理主義者らしい行動である。問題はそれからだ。頑迷な天皇側近らに上申を否定され、圧倒的に不利な湊川の戦いを強いられた時、なぜ唯々諾々と戦場に赴いたのか。

 700騎という手勢で数十万と呼号する足利軍と野戦し、敵の副将・足利直義(ただよし)を討ち取る寸前まで追い込んだ奮戦はまさに、名将の名に値するものである。が、絶望的な戦いに臨んで自刃する最期は、日本人好みの悲劇の名将ではあっても、合理主義者の姿ではない。筆者にとって取材は、この非合理性の理由を見つける旅だった。

 これか、と思えたのは兵庫教育大の得能弘一講師が唱える説だった。自ら死ぬことで建武政権の公家らを覚醒させ、尊氏との妥協に動かすことだったとする考えだ。この視点で「桜井の別離」を読めば、わずか11歳の嫡子・正行(まさつら)に後事を託したことも、より納得できる。尊氏との本当の決戦はないか、あっても先のこととなる可能性が生まれるからである。

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