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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」11 母子像移設 卒業生ら走った

 <大楠公の師滝覚坊(りゅうかくぼう)師は岐阜県飛騨国の出身なること明了となり、老生(桂仙)は飛騨国の出生、親族土屋家は(略)吉野朝に因縁深き>

 彼が知人に宛てた手紙の一節である。正成の少年時代の師・滝覚と郷里が同じことに加え、叔母が嫁いだ美濃の土屋氏は、南北朝時代には正成の盟友・大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし)親王の忠臣だった。

 こうしたつながりを、桂仙が誇りに感じたことは間違いない。楠公母子像建立に力を貸したのも、こんな背景があるからだろう。

 六甲アイランド高校に移された像は、残念ながら台座ごとの移設は叶(かな)わなかった。かつてあった台座には、こんな言葉が刻まれていた。

 <忠貞孝慈>

 子がよく親に仕え、親がよく子を慈しむ-といった意味だ。

 「日本の母の典型といえるでしょう。国事に尽くす夫を支え、その志を子供に受け継がせました。また正行の短慮を深い愛情で叱った点が、獄中で絶食する我が子を諭した吉田松陰の母と重なります」

 近著『日本の母と妻たち 偉人を育て支えた女性の力』で久子を取り上げた、日本政策研究センター主任研究員の岡田幹彦氏はそう指摘する。

 「温故知新。モニュメントに込められた思いを大事にしたい」。山根校長はそう話す。   =続く

     ◇

【プロフィル】加藤桂仙(けいせん)(鎮之助(ちんのすけ))

 明治2(1869)~昭和12(1937)年。飛騨金山(かなやま)(岐阜県下呂市)生まれ。桂仙は号で、名前を鎮之助(ちんのすけ)という。害虫駆除「除虫液」の開発で財を成したのち、楠木正成夫人・久子にゆかりのある楠妣庵(なんぴあん)観音寺の再興に後半生を捧げた。

 大正14年には東京・小石川に3階建ての洋館「楠妣会館」を建設。楠公夫妻の霊を奉祀し、女子学生の寄宿寮として提供した。また『楠公夫人絵伝』を編纂。その他、久子に関する書画を集めた展覧会を大阪高島屋や神戸大丸で催したり、「楠妣庵夏季大学」と銘打ったセミナーを開いたりと、顕彰に力を注いだ。

 実家跡には、加藤素毛(そもう)記念館が建つ。素毛は彼の伯父で、幕末に遣米使節団の一員として世界を一周した俳人。桂仙や楠妣庵に関する展示もある。

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