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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」11 母子像移設 卒業生ら走った

 <風貌は、気品もあり愛情にあふれているだろうということで、河内に綿々と続く旧家の奥さんと坊ちゃんに、40回ばかりモデル台に立ってもらった>

 井上が編纂(へんさん)した『小楠公乃母君』(昭和11年発行)によると、台座には楠公夫妻の誕生地の石や、正行最期の地・四條畷(しじょうなわて)(同府四條畷市)の石を使用。さらに、久子への敬慕の思いを、次のような形で像に込めた。

 ▽石には、一族の菩提(ぼだい)を弔って念仏を唱え続けた久子に倣(なら)い、観音経を写す。

 ▽礎石の下には、職員・生徒の名札を納める。

 ▽鋳(い)込む前の銅板に、久子を称(たた)える詩歌を刻む-。

 昭和11年2月、校舎落成式と同時に銅像除幕式が行われ、湊川神社の神職によって入魂の儀が行われた。

 当時の資料によると、式典では生徒が「大楠公夫人」と題した劇を演じたり、教員が作った「楠母の歌」を歌ったりしている。また生徒には、銅像と同じ鋳材で造ったミニチュアが記念品として配布された。

 除幕式で校長の井上が読み上げた祭文には、次のような一節がある。

 <楠妣庵(なんぴあん)ノ加藤桂仙(けいせん)師亦(また)大イニ賛シテ鋳造完成に尽力セラレ>

 助力を惜しまなかった加藤桂仙への謝意である。

     ◇

 加藤桂仙は飛騨(ひだ)出身の実業家だ。後半生は私財をなげうって久子の顕彰に尽力した。桂仙は大正3(1914)年、久子終焉の地を訪れ、荒廃していることに心を痛めたのである。

 桂仙は同6年、その終焉の地に草庵を再建。草庵は皇太子時代の昭和天皇も視察された。以後20年余りの歳月で、本堂や書院を整備。それが今日の楠妣庵観音寺で、楠公夫人を象徴する旧跡として、昭和初期には1日に数千人が訪れた。

 桂仙が、楠木一族を仰ぐのはなぜか。

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