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【ビブリオエッセー】不思議な夢の森に入って 「パン屋を襲う」村上春樹(新潮社) 

 忘年会シーズンもそろそろ終盤。忘れたいことや思い出したくないこともあるだろうが、そういや忘れていたけれどこんなこともあったな、と思い出すこともある。

 私はこの奇妙な話を思い出した。村上春樹氏の『パン屋を襲う』である。表題の「パン屋を襲う」と続編の「再びパン屋を襲う」が、いわばひとつの物語になっているのだが、著者自身も「どうしてこんな変な話を思いついたのか、今となっては記憶が辿れない」と書いている。

 主人公は若い頃、腹が空き過ぎて当時の相棒とパン屋を襲う。が、店主はワグナーのレコード鑑賞を条件に大量のパンを譲ってくれた。思っていた結末と違ったので厳密には襲ったとはいえないという話を、数年たって妻に話す。すると、その時の未遂感が今の夫婦生活にも微妙に影響を与えているのでは、と感じた妻は、こう言い放つ。「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」。

 二つの話は短編よりも少し長いくらいなので、著者独特の奇妙な方向に話が紡がれていくあの感じを濃密に感じることができる。そして挿絵。イラストレーター、カット・メンシックの絵が、奇妙感を増幅させていて面白い。

 寝る前に読むと忘れていた記憶が思わぬ形に変形して、不思議な夢の森に入っていきそうな一冊である。

 なぜあの時、ああ言ったのだろう、こうしたのだろう、というのは大人ならきっと誰しも抱えている感情ではないか。そんな思いに答えは出なくても、この本はなんとなく寄り添ってくれるようで、静かな時間にお似合いだ。

愛知県豊明市 イシカワマキ34

 【ビブリオ・エッセー募集要項】本に関するエッセーを募集しています。応募作品のなかから、産経新聞スタッフが選定し、月~土曜日の夕刊1面に掲載しています。どうか「あなたの一冊」を教えてください。

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