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ニュース コラム

【朝晴れエッセー】森の石松事件・12月20日

 折に触れ、蘇(よみがえ)ってくる記憶の中で、その度に頬が緩んでしまう一件がある。

 なりたての高校生だった僕は、ある日電車の中で見知らぬ中年紳士に声を掛けられた。

 「君は福岡高校の剣道部か?」

 ピカピカの制帽に竹刀袋を捧げ持っているので、一目瞭然なのである。紳士はちょっと面映(おもは)ゆそうにして、

 「今年の1年生で一番強かとは誰か?」と思いもかけない質問を発してきた。この人物は他校のスパイかもしれない、ノーコメントだと僕は思った。

 しかし紳士の温顔には「聞き出さずにおくものか」という気迫が漲(みなぎ)っていて、僕はその圧力に抗しきれず、「えーと、Nです」と答えてしまった。

 それを聞いて紳士は少し当惑した様子だったが、「なら、二番目に強かとは?」と畳み掛けてきた。「二番目は…Hです」。すると相手は黙ってしまった。

 しばしの沈黙の後、「ほかに強かとはおらんか?」。今度は哀願するような口調になった。(ほかに誰がいる? 答えないとこのオヤジは解放してくれそうもない)

 そのときひとりの名前が閃(ひらめ)いた。「Sというのがいます!」。紳士はその瞬間、何かを押し殺すような複雑な表情をして、二度三度うなずいていたが、もう用はないとばかりに着いた駅で降りてしまった。

 それから半年ほどたち、同級生とSの家に遊びに行く機会があった。茶の間のお父さんに「初めまして僕は…」とあいさつしかけると、満面笑みのお父さんは、その口上を遮って言った。

 「この前会うたねー、電車の中で」

宮入 和身(かずみ) 69 さいたま市中央区

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