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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 8 ゆかりなくても守ってきた

楠木正成を祭神として祭る伊勢玉神社=富山県氷見市
楠木正成を祭神として祭る伊勢玉神社=富山県氷見市

 富山湾を挟んで立山連峰を望み、古くから風光明媚(めいび)の地として知られる富山県氷見(ひみ)市。新元号・令和の典拠となった万葉集の編者と目される歌人、大伴家持(おおとものやかもち)は天平18(746)年から約5年間、この地を含む越中(現富山県)の国司を務めた。

 〈海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)-〉

 後年、歌曲『海ゆかば』の原詩となった長歌を書いたのは、この国司時代のことである。氷見方面にも度々、足を運び、万葉集には現地にあった湖、布勢水海(ふせのみずうみ)を遊覧した際に湖畔の風景を詠んだ歌が収められている。

 そんな万葉の故地に、楠木正成(くすのき・まさしげ)を相殿(あいどの)神とする伊勢玉神社が鎮座している。河内(現大阪府)出身で、ほぼ終生、畿内で活躍した正成がこの地で祭られたのは戦後のことだ。当時、近隣にあった上伊勢小学校の楠公社を遷座したのだという。

 「天皇の写真を保管していた奉安殿などの施設を小学校から撤去することになった際、地元住民の間から、楠公社は伊勢玉神社に遷(うつ)そうという声が上がったそうです」

 鈴木瑞麿(みづまろ)宮司はそう語る。価値観が大転換した戦後に、正成を護(まも)ろうとした数少ない事例が、この神社なのである。

 湊川の戦いで正成が敗死した後、後醍醐天皇は千種忠顕(ちくさ・ただあき)、名和長年ら有力武将を次々に失い、新田義貞に越前での再起を命じた。南北朝時代にかけて、北陸は動乱の地になった。

 「越中では南朝方が力を持ち、能登(現石川県)の北朝方と幾度となく戦火を交えた。国境に近い氷見もその戦乱の最前線に置かれたことは間違いない」

 氷見市史の編纂(へんさん)にも携わった鈴木宮司はそう語る。

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