PR

ニュース コラム

【東京特派員】湯浅博 銭かねいはぬ 世が恋し

 到来物の栗きんとんをほおばりながら、何げなく深川界隈(かいわい)の地図を眺めていた。長い冬籠もりを前に、「こよない自然のおくりもの」などと独り言(ご)ちていた。ふと地図の上に、季節感あふれる「冬木」なる地名を見つけた。

 不思議なことに、周りは東に木場三丁目、西に深川二丁目、南に富岡一丁目とあるのに、ここだけ「冬木」としか記されていない。この手の住居表示は、いずこかの大地主がこの一帯を所有していた名残ではないかと何かで読んだことがある。

 しかも、冬木のはずれには「冬木弁天堂」というお社がある。ひょっとしてこれも、冬木某が寄進した可能性がある。地名の由来は、江東区のホームページですぐに割れた。冬木は材木商「冬木屋」の屋号に由来するという。

 「冬木屋は、上野国(群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置き場として、幕府から買い取った。宝永2年町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである」

 冬木のはずれにある冬木弁天堂も、もとは豪商冬木屋の邸内の弁天堂に安置されていたもの。ここは深川七福神のひとつ弁財天があって、銭洗いすれば商売繁盛に通ずるらしい。境内の句碑に大正期の俳人、岡野知十の「名月や 銭かねいはぬ 世が恋し」とあり、なにやら身につまされる。

 直次が承応3年に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町の邸内にまつり、その孫、弥平次がこの地に移したと伝えられている。

 徳川家康が江戸を本拠地にすると、城と町の建設に必要な材木が関東一円から集められた。この縁で、冬木屋も上州からやってきたのだろう。さらに、明暦の大火で江戸の中心部が焼き尽くされ、材木置き場が隅田川対岸の深川に集められた。かくして、材木商が軒を連ねる木場が誕生する。

 冬木にはいま、高層住宅やオフィスビルが軒を連ね、名残といえば冬木弁天堂しか見当たらない。経済分析の先端を走る大和総研のビルが威風堂々、当地にあるのもおもしろい。江東区の文化財マップには、昭和14年以降に和倉、大和、亀久、そして冬木の各町が合流して「冬木」になったとあるから、冬木屋の敷地はもう少し狭かったのだろう。

 往事、冬木屋は豪商らしく、江戸・元禄に活躍した日本画の尾形光琳を住まわせていた。光琳は京都の呉服商「雁金」に生まれ、成長して多額の遺産を受け継いだものの、享楽的な趣味が災いして破産。40歳から本格的に画家生活に入るが、彼を支えたのが冬木屋であった。

 光琳が冬木屋の妻女のために筆をとり、白綾地の小袖に秋草模様を描いたのが、重要文化財の「冬木小袖」である。いまは東京国立博物館に収蔵されている。

 秋草の文様にはキキョウと菊があしらわれ、光琳はさすがに呉服商の家に育ったせいか、帯が当たる部分には十分な空間を配している。丈は147・2センチあり、この清艶な小袖を着こなしたのは、どんな女だったかを想像するのも楽しい。

 ちなみに、時代小説に登場の冬木には、山本周五郎の「しじみ河岸」、藤沢周平の「闇の歯車」、そして山本一力の「峠越え」と、おなじみの作家たちがここを舞台に選んだ。共通しているのは、庶民が肩を寄せ合う裏店を舞台に、職人や博打(ばくち)うちが事件に巻き込まれる市井ものが多い。

 冬木から北に30分ほど歩いた白河一丁目の深川江戸資料館に、界隈の家並みを実物大で再現した展示物がある。モデルは深川佐賀町だというが、冬木町の裏店もこうだったかと想像ができる。近くにある清澄庭園に寄って帰ろう。(ゆあさ ひろし)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ