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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」(2) 激戦の跡 人を引き寄せる力

千早城跡に建つ千早神社=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
千早城跡に建つ千早神社=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
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 明らかに人の手でつくられた急な丘を登っていくと幅約9メートル、奥行き約6メートルはある平らな場所に出る。足元部分は石垣で整備され、そこに生えるヒノキや松の木の高さはビルの5階か6階ほどもあって、歴史の長さを思わせる。

 楠木正成(くすのき・まさしげ)が鎌倉幕府軍を籠城戦で迎え撃ち、幕府崩壊につなげた千早城跡(大阪府千早赤阪村)。ここは千早神社が建つ本丸跡で、現在の本殿や拝殿の裏側。「ここが神社の起源だったようです」と、神職で責任役員を務める仲谷正輝さんは語る。後醍醐天皇の命で創建された楠木社が、ここにあったという解説である。

 <大軍の近づく処、山勢(さんせい)これがために動き、時の声の震(ふる)ふ中、坤軸須臾(こんじくしゅゆ)に摧(くだ)けたり>

 『太平記』が「大地の軸も一瞬に砕け散るようである」と記した鎌倉幕府の大軍。正成は1千騎ほどで籠城し、約100日も城を支えた。

 「千早城の戦いのころはこの場所に八幡大菩薩があり、正成が戦いの勝利を願い、祈っていたそうです」

 仲谷さんはそう話す。八幡神は武神で源氏の氏神。当時は平氏の北条得宗(とくそう)家が牛耳っていたとはいえ、源頼朝が創業した鎌倉幕府を倒そうとする正成が、八幡神を信仰していたのは面白い。

 神社が今の形になるのは明治の世になってからだ。明治6(1873)年に薩摩出身の堺県令、税所(さいしょ)篤が管内巡視の一環で千早村(現・千早赤阪村)の小学校を訪れ、当時は「楠大神社」と呼ばれた神社の祠(ほこら)や瑞垣が破損していることを確認。当時の村役場に当たる村方に修理を命じたという。

 同6年は、文部省が小学校教科書として初めて編纂(へんさん)した国語『小学読本』で、正成と嫡子・正行(まさつら)父子が登場した年でもある。背景にあったのは、天皇を中心とする国造りを進める政府の方針。維新の官僚らが忠臣である正成、正行父子の顕彰を積極的に進めており、わけても税所が属する薩摩閥は熱心に取り組んでいたという。

 「この時代の県令という存在は、人々にとって殿様-大名と同じようなものですから」

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