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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(12)旅順攻略 敗将ねぎらう優しさ

 <将軍(乃木)をして建武の昔に出(いだ)さしめば必ず楠氏(なんし)の如く、楠氏をして明治の世に在(あ)らしめば必ず将軍の如くなる可(べ)し、楠氏と将軍とは異体同心にして、楠氏は即(すなわ)ち将軍、将軍は即ち楠氏と、断言するを憚(はばか)らず>

 正成と乃木は時代を超えて同じ心を持つ-。こうした考えが、この神社には色濃く反映されている。

 「本殿の建築様式は、正成公を祭る湊川神社(神戸市中央区)の創建当時と同じ春日造りです。村野山人翁は、まず乃木将軍の御神霊を湊川神社に遷(うつ)し、それから乃木神社に迎えました」

 乃木神社総代会会長の文榮(ぶんえい)友隆氏はこう説明する。

 一方で村野は死の前年、過激な「遺書」をしたためている。大正9年のことで、同神社総代会編著『かたくなにみやびたるひと 乃木希典』によると、次のような内容だ。

 <崇敬者が減り、神社の護持が困難になったなら、天下の義人(ぎじん)に訴えよ。それでも応じる者が現れなければ、社殿を焼却せよ>

 この国から乃木精神が失われつつあることへの悲憤の言葉であろう。

 乃木は日露戦争で2人の息子を亡くした。戦争という国難が去り、奢侈(しゃし)に染まりゆく世相の中、明治43年には、父子ともに「公」に殉じた楠公の余薫(よくん)をしのぶ歌を詠んでいる。

 <根も幹も枝ものこらず朽果(くちは)てし楠(くす)の薫りの高くもあるかな>

■乃木希典(のぎ・まれすけ)

 嘉永2(1849)年、江戸麻布の長府(ちょうふ)藩邸で生まれた。赤穂義士10人が切腹した場所で、現在の六本木ヒルズ付近。乃木一家が住んでいた当時、義士たちがいた長屋はまだ残っていた。こうした点が、人格形成に影響を与えたことは間違いない。また、武士道を実践する上で、山鹿素行(やまがそこう)と吉田松陰を師と仰いだ。

 陸軍軍人として西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第三軍司令官として旅順を攻略した。明治天皇崩御に際し、妻とともに殉死。享年62。社会批評家の大宅(おおや)壮一は、日本民族が受け継ぐ「忠誠心のモニュメント」を挙げるとすれば、楠木正成、赤穂義士、乃木希典だと書く。

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