PR

ニュース コラム

【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(12)旅順攻略 敗将ねぎらう優しさ

桜井の別れの舞台に立つ「楠公父子訣別之所」の碑。乃木希典が揮毫した=大阪府島本町(恵守乾撮影)
桜井の別れの舞台に立つ「楠公父子訣別之所」の碑。乃木希典が揮毫した=大阪府島本町(恵守乾撮影)

 世界が感動した写真がある。日露戦争の旅順攻囲戦で、死闘を繰り広げた両軍の首脳が、肩を寄せ合って1枚に納まっている。

 明治38(1905)年1月5日、旅順郊外で司令官の乃木希典(のぎ・まれすけ)は、敗軍の将ステッセルと会見した。「水師営(すいしえい)の会見」である。

 武士の礼をもって遇せよ-。明治天皇の意向を受けた乃木は、ステッセルに帯剣を許し、各国の従軍記者が強く望んだ撮影も、会見後に1枚だけ許可した。

 「乃木は明治天皇の大御心(おおみこころ)を体現した人物で、迷いのない忠誠心がありました。それは武士道の精髄ともいえるものです」

 東京大名誉教授で、東京都港区の乃木神社の「中央乃木会」会長を務める小堀桂一郎氏はそう話す。

 会見所となった民家は、野戦病院として使われたもので、壁には弾痕があった。新聞紙を貼って隠したが、下見をした乃木は新聞を白く塗りつぶすよう指示した。ロシア敗戦の記事が書かれていたからだ。

 こうした戦場での美談について、小堀氏はこう指摘する。

 「旅順要塞のロシア守備軍が降伏した後、乃木はすぐに、食糧やブドウ酒を届けています。敵をいたわる精神は、楠木正成(くすのき・まさしげ)の嫡男(ちゃくなん)・正行(まさつら)が、酷寒の川で溺れる敵兵を助けた『渡辺橋の義戦』と重なる。またロシア軍戦死者を先に慰霊しました。これも、正成が味方より敵を弔う塚を大きく建てたことに通じます」

 小堀氏の祖父で画家の小堀鞆音(ともと)は、乃木と親交があり、乃木の先祖である源平時代の武将・佐々木高綱の肖像画の依頼を受けたこともあるという。

 乃木は大正元(1912)年9月13日、明治天皇御大葬の日に、妻の静子と自決した。乃木の至誠の源泉はどこにあるのか。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ