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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(8)「公」に生きた非情の宰相

 有馬は勤王家で、大久保の5歳上。大久保らと同じ薩摩藩士のグループ、精忠組に属したが、のちに強硬論が藩に容(い)れられず、粛清される。

 「有馬は壮絶な最期を遂げたことで、過激な志士との印象がありますが、実際は学問にも秀で、多くの著作を残しています。正成に関する論考も多い」

 鹿児島県歴史資料センター黎明館の学芸専門員、崎山健文氏はそう語る。

 鹿児島市石谷(いしだに)町に文久元(1861)年、有馬らによって正成を祭る「楠公神社」が創建され、大久保も積極的に協力している。

 <楠公の忠精を慕って、若い者同志で作ったお社(やしろ)で(略)、公(大久保)なども材木を担いで、小高い処(ところ)へ運んだりして建築したもので、造営のできた時は、家内中にもまいれと言われた>

 大久保の妹たちが後年、語った思い出話である。

 現在、その地に神社はなく、碑があるだけだが、近くにある同市立石谷小学校の校章と校歌に、その名残をとどめている。校章は楠木家の家紋「菊水」、校歌には「菊水の誇りを胸に」という歌詞がある。

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