PR

ニュース コラム

【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(8)「公」に生きた非情の宰相

 正成の生誕地は豊臣時代、太閤(たいこう)検地の際に初めて壇が築かれ、祠(ほこら)が建てられた。江戸中期にも一度、保護が加えられているが、その後は荒れ果て、大久保が訪れたときには土壇を残すのみだった。

 「荒蕪(こうぶ)に任せて顧みないのは、抑(そもそ)も王政復古の大精神を知らぬのか、将(は)た大楠公の誠忠大義を忘れたのか(略)。県令以下宜(よろ)しく相謀(あいはか)り、速(すみやか)に其(その)保護と旌表(せいひょう)とを講せられよ。余(よ)も亦(また)聊(いささ)か資を助けん」

 大久保は、史跡の保護を指示し、顕彰のための寄付を申し出た。

 木戸、西郷隆盛と並ぶ「維新の三傑」の大久保は、「人望が厚い」といわれる西郷に対し、「冷徹な現実主義者」と評されることが多い。その彼が正成を仰ぐ理由は何か。昨年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」で、時代考証を務めた志學館大教授の原口泉氏はこう指摘する。

 「大久保は神社祭祀など精神的なものを大事にしています。だからこそ列強に伍(ご)するには、正成がめざしたように、天皇を中心にまとまるべきだと考えたのでしょう。そして何より、有馬新七の影響も大きい」

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ