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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第3章 維新回天の原動力(8)「公」に生きた非情の宰相

大阪府千早赤阪村に建つ楠公誕生地の碑。荒れ放題に心を痛めた大久保利通が保護を促した。揮毫は誉田八幡宮祀官だった桃井春蔵(恵守乾撮影)
大阪府千早赤阪村に建つ楠公誕生地の碑。荒れ放題に心を痛めた大久保利通が保護を促した。揮毫は誉田八幡宮祀官だった桃井春蔵(恵守乾撮影)

 明治8(1875)年1~2月。政府の実力者である大久保利通は、対立して下野した木戸孝允(たかよし)や板垣退助と大阪・北浜に会し、今後の方針を協議した。明治の政治史にいう「大阪会議」である。

 大久保の日記には、2月8日に会議の合間をぬって、大阪府千早赤阪村にある楠木正成(くすのき・まさしげ)の生誕地を訪れたと記されている。大久保はそのとき、正成の史跡のあり様に愕然(がくぜん)とし、同行した堺県令(県の長官)の税所篤(さいしょ・あつし)らに向かってこう言ったと、『大楠公奮忠事歴(ふんちゅうじれき)』(大正4年発行)は伝える。

 「吾等同志の者が、尊王倒幕の大義を唱へ、身を捨て家を忘れ東奔西走して天下を動し、遂に明治維新王政復古の御代を開きしは、皆是(こ)れ大楠公の遺志を継承して、君国の為(た)めに臣節を淬励(さいれい)した(略)。然(しか)るに今親しく楠公の遺蹟を訪(おとな)へば、実に此有様(このありさま)である」

 天皇親政の実現に尽くした正成の志を継ぎ、我々は国事に奔走した-。そう自負する大久保が、荒れた史跡を見て嘆いたのである。

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