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ニュース コラム

【日曜に書く】論説委員・森田景史 捨てられぬ取材ノート

 いつだったか、取材現場でお世話になっているスポーツライターの先輩から言われた。

 「取材したら、その分はちゃんとアウトプット(記事化)する。でないと、私たちはいつまでも身軽になれない」

 物書きの「使命」や「宿命」という大仰な話ではない。

◆取材とアウトプット

 話をうかがい、ノートに書き留める。その瞬間から、記者は取材相手の言葉を預かり、何かしらのメッセージを託され、それを世に出す役目を背負う。アウトプットが滞れば、記者の心はその分だけ重くなる。

 筆者の自宅には、書斎とは名ばかりの物置き部屋がある。一角に過去の取材ノートが山積みになっている。二十数年分。年に1度か2度、薄く積もるほこりを払い、読み返しては捨てるか残すかをより分ける。その大半は捨てきれずに来た。

 今年は遅い関東地方の梅雨明けを機に、虫干しを兼ねて何冊かのノートに風を通した。

 「ほんまは怖い」

 2003年1月の取材ノートにこうあった。

 小松則幸というボクサーの言葉だった。当時、23歳。無敗の東洋太平洋フライ級王者は口数が少なく、しかし、ひと言に重みのある青年だった。

 右の拳が変形していたのを思い出す。デビュー2戦目で中指を骨折し、3、4戦目も同じ箇所を折っていた。骨と骨を金具でつなぎ、握り拳を作るとそこが異様に盛り上がった。

 「でも、折れたら左一本でもやったろうと思うんです」

 拳ではなく、気力で戦うボクサーだった。当時の記事にも、そう書いたと思う。

◆悲運の拳

 世界挑戦は遠かった。プロ26戦目、インタビューから2年がたっていた。タイ人王者の正確で容赦ない強打を浴び、5回途中TKO負けしたのが最初で最後のタイトル戦だった。

 小松はその4年後、大津市内での合宿中に滝壺に落ちて亡くなっている。試合を控え、「精神修養」のために寺に泊まり込んでいたという。拳ではなく気力-。29歳、信念に殉じた悲運の人に思えてならない。

 小松の言葉から、もう一人の青年を思い出し、1冊のスコアブックを開いた。

 「自分が稼いで、でっかい墓を建てたいんです」

 06年6月のメモにそうある。近大3年の小瀬浩之。その年の関西学生野球春季リーグで首位打者となった、俊足巧打の外野手だった。

 誰のお墓を?

 「“おかん”です」

 家計に余裕がない中、地元大阪から香川県の強豪私学に野球留学した。卒業後は就職して親孝行するつもりが、母に「やめたらあかん」と近大進学を後押しされたという。

 05年2月に他界した母の遺骨は、まだ埋葬できずにいた。プロになって「でっかい墓」を、と。言葉には続きがあった。

 「静かな田舎に。おかんは人ごみが嫌いやったから」

 ◆生者の記憶の中に

 小瀬はのちに、大学生・社会人ドラフトの3巡目でオリックスに入団した。「イチローの再来」という期待に違わず、2年目には出場78試合で3割を超える打率を残している。

 訃報記事で彼の名を見たのは10年2月。キャンプのさなかに宿舎の高層階から転落した。24歳。春秋に富んだはずの人生はぷつりと途切れた。

 歌人の永田和宏さんに忘れがたい一首がある。

 〈わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ〉

 妻で歌人の河野裕子さんを10年夏に亡くし、何年か後にこの歌を詠んだ。死者は生者の記憶の中にしか生きられない。だから、自分は生き続けなければならない、と。

 今年も盛夏が巡ってきた。2つの原爆忌と終戦の日が近づき、「命」という言葉が重たく響く。筆者自身が40代最後の夏を迎え、人生の後半戦を強く意識することもある。まぶたの裏に描く人々の輪郭は、いつにも増して鮮明になる。8月はそんな季節でもある。

 彼らの記憶を書くことで身軽になることは、この先もあるまい。こちらはまた一つ、年を重ね、ノートの中の彼らは20代のまま年を取ることがない。亡くなった人のことを書くのは、とても難しい。

 変形した拳に人生を懸けた小松。渾身(こんしん)の一振りに夢を託した小瀬。汗を四散させる横顔は、いまも若く、まぶしい。(もりた けいじ)

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