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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第2章 時代の先駆者が伝えるもの(9)赤十字の理念とも重なり

 正成亡き後、南朝軍の主力となった正行は、住吉(大阪市)の合戦で足利幕府軍を破る。京へ逃げ帰ろうとした足利勢が渡辺橋(同)に殺到し、500人以上が真冬の川に転落した。それを正行が救出した。

 <楠(くすのき)、情けある者なりければ、小袖(こそで)を脱(ぬ)ぎ替(か)へさせて身を暖め、薬を与へて疵(きず)を療治せしむ。四、五日皆労(いたわ)りて、馬を引き、物具(もののぐ)を失ひたる人には、具足(ぐそく)を着せ、色代(しきだい)してぞ送りける>

 正行は凍える者に薬や服を与えたばかりか、4~5日養生させ、武具を失った者には装備を調えて京に帰したと『太平記』は記す。足利勢の中には、これを機に正行軍に参じる者も多かったという。

 「展示された正行の絵は、わが国で赤十字精神が古くから尊重されてきたとのアピールに、一役買ったといわれています」

 鞆音の孫で、東京大名誉教授の小堀桂一郎氏は、こう指摘する。

 小堀氏によると、鞆音には楠木父子を題材にした作品が多い。ただ残念なことに、渡辺橋の絵は戦前、焼失したという。

 しかし、鞆音のこの絵を基に作られた絵はがきが、日本赤十字看護大の史料室に残されていた。日赤大阪支部が昭和11(1936)年に作製したものだ。

 「日赤の社史や明治期に使われた救護員養成の教科書には、正成の寄手塚の話や正行の美談が取り上げられています」

 同大の元職員、吉川龍子(りゅうこ)さんはこう話す。教科書は例えば、こんな記述で正行を絶賛する。

 <我国に於(お)いて赤十字の精神の発揮せられたる歴史上の著しき例を見んか、最も適切なるは小楠公の事跡なるべし>

 渡辺橋があったとされる大阪市中央区の天満橋近くには、昭和15年に「小楠公義戦之跡」と刻まれた石碑が建てられた。碑文には、敵を救出した正行の行動が欧米人に感動を与え、明治20(1887)年、日本が国際赤十字に加盟するのを容易にした-という内容が記されている。

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